あすなろ会が開いたクリスマス会でサンタクロースに扮する平野さん(中央)=1967年12月(奥田さん提供)

あすなろ会が開いたクリスマス会でサンタクロースに扮する平野さん(中央)=1967年12月(奥田さん提供)

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被爆2世を生きる 平野伸人の半生(3) 【弱者】 支援活動に生きがい

2020/06/30 掲載

あすなろ会が開いたクリスマス会でサンタクロースに扮する平野さん(中央)=1967年12月(奥田さん提供)

あすなろ会が開いたクリスマス会でサンタクロースに扮する平野さん(中央)=1967年12月(奥田さん提供)

【弱者】 支援活動に生きがい

 学生運動が盛んだった1965年、平野伸人(73)は新聞記者を目指し早稲田大教育学部社会科へ進む。学内で間もなく学費値上げなどを巡る「150日間闘争」が始まった。だが、平野自身は集会などに参加はするものの、運動に傾倒するわけでもなかった。
 悶々(もんもん)とする日々。変化をもたらしたのは、知人に誘われて入った知的障害者の支援サークルだった。大学2年時には就学前の知的障害児や親と交流するサークル「あすなろ会」の創設メンバーとなる。
 当時、知的障害児が幼稚園に入れず、母親と家に閉じこもっていることが問題になっていた。会は定期的に母子を集め、子ども同士、親同士の交流の場をつくった。「これだ」。目標を見失っていた平野は障害児施設を運営しようと、先進地ドイツへ視察に行くほどのめり込んだ。会に誘った元NHK職員の奥田賢一(73)=京都市=は、当時の平野を「弱い立場の人を助けようと一生懸命。子どもと遊ぶのも上手だった」と振り返る。
 大学卒業後、「食うため」に千葉県内の鉄鋼商社に就職、5年間勤めた。高校の後輩で、都内の別の大学から会に参加していた啓子(71)と結ばれ、子どもをもうけたのもこのころだ。そして、小学校教諭になっていた会の仲間の影響で、同県の公立小教諭に転身した。
 「よく働いた。会社員時代から体重が10キロ減った」。親が経営する会社が厳しくなり、修学旅行に行けなくなりそうな児童がいると、ポケットマネーで連れて行った。自衛官の保護者が多い土地柄。保護者との会合では、安全保障問題などを語り合った。
 79年、長崎市に帰郷。人生の大きな転機となる。市立福田小を経て84年、西彼時津町立時津東小に転勤。ある日、児童が近くの県立盲学校の子どもに差別的な言葉を投げかけ、石を投げたと聞いた。ショックだった。
 「子どもに注意するだけでは駄目だ。理解し合わないといけない」。学校でそう訴え、「交流教育」を始める。子どもたちが互いに学校訪問し、一緒に運動や行事を楽しむ斬新な取り組み。活動は全国に知られ、視察が相次いだ。
 平和教育についても、被爆者の先輩教諭たちの熱心さに「感化されていった」。あすなろ会で培われた弱者や相互理解への意識。そのまなざしは、後に被爆者や被爆2世にも注がれる。(文中敬称略)