1970年に長崎の証言刊行委員会が聞き取った被爆者実態調査の調査票

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被爆74年 被爆地の叫び 長崎の証言50年・2 <調査> 怒りの声 すくい上げ

2019/08/07 掲載

1970年に長崎の証言刊行委員会が聞き取った被爆者実態調査の調査票

  「二度とこんなひどいことがあってはならない」
 「長崎の証言」創刊号の編集作業に携わった吉村眞吾(71)の妻、節子(71)は197年の夏、被爆者の悲惨な体験談を聞いた時に込み上げてきた怒りの感情を思い出す。
 節子は壱岐出身。当時、県立長崎保健看護学校の学生だった。「長崎の証言」を発行する「長崎の証言の会」事務局長の廣瀬方人(故人)に「保健の仕事に就くならば長崎のことを知らないと」と言われ、同会が取り組んでいた被爆者への聞き取り調査に同行した。
 調査対象者の中には、車いすの被爆者として反核運動を引っ張った渡辺千恵子(故人)もいた。実際に会った渡辺は「強い人」のイメージとは異なる「静かな人」だった。渡辺らのつらい体験を聞くと、まるで被爆者の苦悩が染み込むように、節子の中に「原爆反対」の思いが広がっていった。
 節子が調査に同行した約5年前の67年11月、厚生省は「被爆者と非被爆者との間に健康と生活上の有意の格差はない」とする調査結果を発表した。国の援護を待望していた被爆者は「被爆者の不安を見過ごした」と激しく反発した。公的機関ではなく、市民による実態調査を求める機運が高まった。
 68年、長崎造船大助教授(当時)の鎌田定夫(故人)は長崎憲法会議や長崎原爆被災者協議会などの有志を集め、被爆者への聞き取り調査に取り組んだ。被爆者100人の体験談や生活状況、国に対する要求などを報告書にまとめ「被爆者は孤立している」と訴えた。
 有志グループは「長崎の証言刊行委員会」に発展し、69年の「長崎の証言」創刊につながった。委員会は70年に回目の実態調査を実施し、被爆者169人から体調や収入、差別経験などを聞き取り、怒りの声をすくい上げて厳しい実態を明らかにした。
 71~86年に証言の会会長を務めた被爆医師の秋月辰一郎(故人)は創刊号で「私たちは大いに語らねばならぬ。今まで語らなさすぎた。語ることは私たちの義務である。人間に対し、人類に対しての義務である」と呼び掛けた。
 証言の会の呼び掛けや調査に応じ、それまで口を閉ざしてきた多くの被爆者が長崎の証言を通じて「怒りの声」を上げた。長崎の証言は被爆者運動の活性化に大きな役割を果たすようになる。(文中敬称略)