「長崎の証言」創刊号を手に編集作業の様子を語る吉村さん=北九州市戸畑区

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被爆地の叫び 長崎の証言50年・1 <創刊> 生の声を「掘り起こす」

2019/08/06 掲載

「長崎の証言」創刊号を手に編集作業の様子を語る吉村さん=北九州市戸畑区

 被爆証言集「長崎の証言」は今年、創刊から50年を迎える。同誌は人類史上最悪といえる核兵器による被害を受けた被爆者たちの「叫び」を記録して紹介するとともに、核兵器廃絶や戦争を巡る世界情勢を論じ、反核・平和運動の形成に大きな役割を果たしてきた。同誌の歩みと今後を見詰めた。

 「鎌田先生は10年計画と言っていたが、10年続くことさえ想像できなかった。それが50年も続くとは」。北九州市戸畑区の吉村眞吾(71)は、1969年8月9日発行の「長崎の証言」創刊号をめくりながらつぶやいた。
 創刊号は44ページ。執筆陣には被爆医師の秋月辰一郎、被爆詩人の福田須磨子らが名を連ね、語り部として活躍した渡辺千恵子(いずれも故人)のスピーチや、原爆投下を知らない学生や平和教育を志して苦悩する教師の声も収めている。内容の充実ぶりが目を引く。
 編集責任者は長崎造船大助教授(当時)の鎌田定夫(故人)。創刊号は鎌田が多くの協力者に執筆を呼び掛け、発行にこぎつけた。
 創刊号の編集作業に携わったのは鎌田と妻の信子(故人)、そして造船大4年生だった吉村の3人だけだった。吉村を訪ねると、50年前に「長崎の証言」が誕生した「熱い夏」のことを語ってくれた。
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 当時の吉村は哲学書の解釈を尋ねるため、たびたび鎌田の研究室を訪ねていた。7月下旬のある日、鎌田から「仕事を手伝ってくれないか」と切り出された。
 鎌田の自宅で数日間、朝から夕方まで創刊号の編集作業を手伝った。鎌田がその場で考えを巡らせて原稿を読み上げ、吉村が用紙に記していく。何しろ真夏だ。窓を開け、2人とも上半身は下着1枚になって作業を続けた。
 鎌田はこの頃、肝炎を患っていたが、8月9日の発行日に間に合わせるため、病院から外泊許可を得て作業をしていた。体調は優れなかったはずだが、吉村はその迫力と情熱に圧倒された。
 休憩中に鎌田は「被爆資料はあっても被爆者の生の声はどこにも紹介されず、ほとんど残っていない。10年計画で掘り起こさないといけない」と思いを明かした。熱意の原点には、戦前に十分な治療を受けられずに病死した兄への思いや、日本戦没学生記念会(わだつみ会)に入り活動した経験があると教えてくれた。
 こうした手作業の末に完成した創刊号は、8月9日の原水爆禁止世界大会で完売した。鎌田の情熱が生んだ創刊号をきっかけに、市井の被爆者たちが「心の叫び」を解放し、「長崎の証言」に続々と証言を寄せていくことになる。
 吉村は言う。「先生は相手が誰であろうと色眼鏡で見なかった。その人間性と志が周囲を引きつけていた。だからこそ、今でも多くの人が思いを引き継いでいるのだと思う」(文中敬称略)