憲法考 長崎から 被爆者と9条 1

在りし日の福田須磨子について詩碑の前で語る池田さん=長崎市平野町

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憲法考 長崎から 被爆者と9条 1 60年安保、詩人怒る

2017/07/31 掲載

憲法考 長崎から 被爆者と9条 1

在りし日の福田須磨子について詩碑の前で語る池田さん=長崎市平野町

60年安保、詩人怒る

 7月8日。長崎の被爆者、池田早苗(84)は長崎市の爆心地公園そばに立つ被爆詩人、福田須磨子(1922~74年)の詩碑の前にいた。

 前日の深夜、核兵器の使用を非合法化する「核兵器禁止条約」が国連の会合で採択され、その報告をしていた。ただ、この条約は被爆者の長年の悲願で喜んでいいはずなのに、池田の心境は複雑だった。

 72年前、広島と長崎で人類史上初めて原爆の惨禍を経験したにもかかわらず、日本政府は核保有国と足並みをそろえ、条約の制定交渉に参加しなかった。さらに首相の安倍晋三は2014年7月、歴代内閣が認めてこなかった集団的自衛権の行使を容認し、今では「戦争放棄」や「戦力の不保持」をうたった憲法9条の改正に前のめりになっている。

 池田は「福田さんが今の政治を見たら相当怒るだろうね」と言う。福田の反核、反戦の思想は徹底しており、その詩は読む者の心を激しく揺さぶった。1950年代後半から60年にかけ日米安全保障条約の改定を巡り、今の世相と同じように「日本は再び戦争をするかもしれない」との不安感が高まった。当時、原爆症に苦しみながらも政府に猛然と反発した福田の姿を、池田は思い起こしていた。

「-たおれたって悔いはない- 私は被爆者代表の二人と 二等の汽車に乗りこむ もどかしい思いをのせて 東京へと汽車は走る」

(詩集「烙印(らくいん)」より)

 60年6月12日。体の痛みに耐えながら上京した福田は、全国から集まったデモ隊と国会議事堂を取り囲み、日米安保改定反対のシュプレヒコールを上げた。

 福田は23歳の時、爆心地から1・8キロの長崎師範学校(現在の文教町)で被爆し、父母と長姉は浜口町の自宅で爆死した。自身も原爆症に冒され、倦怠感や脱毛、顔や体に紅斑が広がるエリテマトーデス、リウマチなどの症状に襲われた。

 57年度に原爆医療法が施行されるまで被爆者は放置された。国家が始めた戦争で原爆が投下され、市民は病魔と貧困に苦しんでいるのに、それを省みない政府への恨みが福田の根底にはあった。福田は政府への怒りを激しく燃やしていく。

 憲法9条の「平和の理念」が揺らいでいる。戦後、日本は再び戦争をすることはなく、それは9条がもたらしたと護憲派は訴える。だが北朝鮮の核・ミサイル開発や中国との領有権摩擦など国際情勢の変化に伴い、9条を改正すべきだとの世論も一定ある。被爆者らの証言をつむぎながら平和の在り方を考えたい。=敬称略=