被爆71年ナガサキ 71年目の被爆者 アメリカへの視線 8(完)

オバマ米大統領の被爆地訪問に立ち会い、取材に答える小川さん

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被爆71年ナガサキ 71年目の被爆者 アメリカへの視線 8(完) 次世代 謝罪越え 向き合おう

2016/08/06 掲載

被爆71年ナガサキ 71年目の被爆者 アメリカへの視線 8(完)

オバマ米大統領の被爆地訪問に立ち会い、取材に答える小川さん

次世代 謝罪越え 向き合おう

 5月27日、広島市の平和記念公園。演説を終えた米大統領バラク・オバマは参列者席に歩み寄り、広島の被爆者と対話した。その一人、森重昭(79)が言葉にならず崩れ落ちそうになると、オバマは両手で支えるように抱きかかえた。原爆を投下した米国の大統領と被爆者の抱擁-。その瞬間は世界中で報じられた。

 森は米兵捕虜の歴史研究家でもあり、その功績が米側に認められ歴史的な場に招待された。オバマとの抱擁時の心境は「大統領の立場もある」と語ろうとしないが「かつては米国をずいぶん恨んだ」と言う。

 1945年8月6日、当時8歳の森は、広島市内の国民学校に通学途中に被爆。爆風で吹き飛ばされたが、川に落ちて無事だった。しかし、大勢の遺体を目の当たりにし、妹を被爆の後遺症で失った。食べるものもなく、苦しい生活を余儀なくされた。

 戦後、広島原爆戦災誌をめくると、あの日の惨状と一致しない記述にいくつも気付いた。会社勤めの傍ら独自に調査を進めると、母校に米国人の遺体があったという記録を見つけ、のちに米兵捕虜と判明した。

 当初、米国は被爆米兵の存在をかたくなに否定した。だが、日米の膨大な戦争資料が開示されるようになり、その中で森は米兵12人の名前を突き止めた。大切な家族の最期を知った遺族は森に感謝した。ある遺族からの手紙にしずくの痕があった。「泣きながら書いたのだろう。戦争は国籍に関係なく、人を深い悲しみに追い込む」。米国への怒りは消えていった。

 戦後71年、被爆者たちは米国への怒りの感情を、それぞれに変容させながら生きてきた。それを「憎悪」にだけ染めていては、中東や欧米のテロのように悲劇が繰り返されてしまうが、謝罪を求め続ける被爆者の心の内には、あの惨状を次世代には経験させてはならないとの思いがある。

 だが被爆者の平均年齢は80歳を超えた。彼らが語れなくなる未来はもうそこまで来ており、その思いを絶やさない努力が求められる。

 第18代高校生平和大使で活水高2年の小川日菜子(16)=長崎市=はオバマの広島演説の場に招待され、その姿を見詰めていた。

 小川は父方の祖母が広島で、母方の祖父が長崎でそれぞれ被爆。二つの被爆地の3世という立場を意識して臨んだが「大統領に謝罪を求めたいという気持ちは湧かなかった」という。

 原爆投下を許すつもりはない。ただ平和活動を通じ米国にも核廃絶を求める声は少なくないと感じている。「原爆を体験していない世代が被爆者の怒りを本当に理解するのは難しい。だけど、グローバルな時代を生きる私たちだからこそできる、アメリカとの向き合い方がきっとあるはず」

 今は、それがどんな形なのか分からない。でも、ひたすら平和を訴え、行動することで、その答えが見えてくると信じている。=文中敬称略=