被爆71年ナガサキ 71年目の被爆者 アメリカへの視線 6

米国からの帰国後の記者会見で「米国内でも反核運動は着実に盛り上がっている」と語る山口仙二さん(右)=1985年6月22日、長崎市岡町の長崎被災協

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被爆71年ナガサキ 71年目の被爆者 アメリカへの視線 6 長崎 投下国に理解求める

2016/08/04 掲載

被爆71年ナガサキ 71年目の被爆者 アメリカへの視線 6

米国からの帰国後の記者会見で「米国内でも反核運動は着実に盛り上がっている」と語る山口仙二さん(右)=1985年6月22日、長崎市岡町の長崎被災協

長崎 投下国に理解求める

 「大使は覚悟の上で来たんだろう。声に耳を傾けようという姿勢の表れだろうから気持ちよく迎えてあげるべきだ。被爆者の声をちゃんと伝えればいい」

 2012年8月9日、駐日米大使が初めて長崎市の平和祈念式典に参列。被爆者運動の第一線から退いていた山口仙二は、雲仙市小浜町のケアハウスで穏やかに取材に答えている。

 米大統領バラク・オバマが09年、チェコ・プラハで「核なき世界を目指す」と表明して以降、米国は広島と長崎の平和式典に政府代表として高官を派遣。12年の長崎の式典に出席した大使ジョン・ルースは硬い表情のまま何も語らなかったが、長崎原爆被災者協議会(長崎被災協)副会長の横山照子(75)は「仙二さんは、大統領が核廃絶を進めてくれるだろう、と期待を抱いていたはず」と語る。

 山口は、花輪踏み付けや国連演説など怒りや激しさが強調されがちだが、米国の市民と積極的に対話しようとする一面もあった。

 1980年以降、日本原水爆被害者団体協議会(被団協)の派遣で何度も渡米し、集会などで生々しい被爆体験を語った。現地の人から「パールハーバー(真珠湾攻撃)で息子が死んだ。核兵器が必要だ」と抗議を受けた時は「あなたたちを責めたのではない。原爆を使うとこんなふうになる」と自身のケロイドを見せ、徹底的に分かり合おうとした。
85年の訪米に同行した当時の被団協事務局員、伊藤直子(68)は「仙ちゃんは英語で懸命にスピーチした。長崎で受けた英会話講座の修了書を恥ずかしそうに見せてくれ、米国の人に肉声で伝えたいという気持ちを感じた」と振り返る。

 山口は原爆に苦しみ、怒った感情を、「ふたたび被爆者をつくらない」という思いに昇華させ、投下した米国にも核廃絶への理解を求め精力的に行動した。しかし、世界は核廃絶どころか核拡散の危機に見舞われている。そんな情勢の下、当の投下国の大統領が「核なき世界」を提唱した。それを山口が好意的に評価するのは自然とも言え、オバマのノーベル平和賞受賞が決まったときは「世界の世論(の力)」と喜んだ。それはオバマの広島訪問を、決して少なくない被爆者が歓迎した姿と重ならないだろうか。

 山口は2013年7月、82年の生涯を閉じた。それから2年10カ月後、オバマの広島訪問が実現したが、健在だったらどう評価しただろう。

 長崎被災協副会長の横山は言う。「大統領は演説で『核なき世界を追求する勇気を持たなければならない』と述べたが、具体策は何もなかった。がっかりしたのではないでしょうか」
=文中敬称略=