被爆71年ナガサキ 形見は語る 原爆が奪った命の声 2

故宮津弘子さんからの手紙を前に当時を振り返る柳原さん=長崎新聞社

ピースサイト関連企画

被爆71年ナガサキ 形見は語る 原爆が奪った命の声 2 同級生の手紙(上) 病床の中 希望湧く

2016/07/21 掲載

被爆71年ナガサキ 形見は語る 原爆が奪った命の声 2

故宮津弘子さんからの手紙を前に当時を振り返る柳原さん=長崎新聞社

同級生の手紙(上) 病床の中 希望湧く

 1通の手紙がある。

 「8月9日 あれからどうしましたの」

 色あせた3枚の便せん。裏側まで丁寧な文字がびっしりと並び、あの防空壕(ごう)で別れた後のことを案じている。

 手紙の持ち主は、柳原英子(86)=西彼長与町丸田郷=。1945年9月、同じ場所で被爆した同級生、宮津弘子から届いた。「無事だったと分かり、涙が止まらなかった」

 英子は当時15歳。県立長崎高等女学校の4年生だった。弘子とはクラスが違い、知り合ったのは、学徒動員先の三菱長崎兵器製作所茂里町工場で同じ班に配属されてから。丸顔でいつも笑顔の弘子を見ると、こちらも自然と笑顔になった。

 「映画に行きたいね」「医科大近くの写真館で一緒に撮ろうよ」。工場で魚雷の部品の歯車を磨く合間に、おしゃべりに花を咲かせた。息苦しい戦時下で、わずかな楽しい時間だった。

 8月9日も同じような時間が流れるはずだった。工場2階の作業台近くで弘子らと話をしていた時、閃光(せんこう)が走り、床が抜けた。気を失い目が覚めた時には、がれきに埋もれていた。懸命に這(は)い出し、工場近くにある寺の下の防空壕に逃げ込んだ。

 同じ壕にいた弘子は、たいしたけがもなく、右足を痛めていた英子のためにつえになる木を探してくれた。ただ数時間後、父の勤め先を目指し、壕を離れる。

 「気を付けて」

 「あなたこそお元気で」

 けがをしていた英子を心配し、弘子は別れ際、何度も振り返った。

 英子はその日のうちに、壕の前を通り掛かった父の知人に背負われ、長与村(当時)の自宅に戻った。だが、体には斑点ができ、鼻血や下痢に苦しんだ。くしを使うと、バサッと髪が抜け落ちた。毎朝、目が覚めるたびに手をつねり「まだ生きている」と確かめた。

 弘子からの手紙は、そんな日々の中で届いた。

 「今朝まであった住宅の後(あと)もなく全くぼやっとしてしまいました」「大事な母と最愛の妹二人を失ひ、父と色んな事を思い出しては泣いて居(い)ます」「今は焼け出されて何もありませんので(略)、このインクもペンも紙も人から借りたものです」

 弘子の悲しみを思うと胸が締め付けられたが、手紙の後段の一文を見て希望が湧いた。「いづれ学校もある事でせう。その時会いませう」。早く元気になって、弘子といろんな話をしたいと思った。

 だが、2人が再会する日は、ついに来なかった。=文中敬称略=