被爆71年 原爆をどう伝えたか 第6部 4

当時の新聞記事を見て、盧さんとの対話を振り返る平野さん=長崎市内

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被爆71年 原爆をどう伝えたか 第6部 4 戦争責任と加害(4)

不戦の未来 つくる義務

2016/03/27 掲載

被爆71年 原爆をどう伝えたか 第6部 4

当時の新聞記事を見て、盧さんとの対話を振り返る平野さん=長崎市内

戦争責任と加害(4)

不戦の未来 つくる義務

 1995(平成7)年夏、県被爆二世教職員の会会長の平野伸人(69)=現平和活動支援センター所長=は、韓国ソウル郊外に向かうバスに揺られていた。平野らが同年7月に韓国で企画した原爆展に激しい抗議活動を展開した盧炳禮=当時(72)=に会うためだ。

 盧の主張は頑強だった。「加害者日本を戦争の被害者に仕立て上げる原爆展は許さない。反核より日本の謝罪が先だ」。平野は言葉を尽くした。「国家間のけじめと並行し、核兵器廃絶の共通の目標のため日韓で協力したい」。だが議論はなかなかかみ合わない。

 米国、韓国で原爆展に反発され、原爆投下をめぐる認識のずれに被爆地は直面。平野は当時、一連の騒動が「歴史認識の相違を克服する転機」と期待した。しかし近年は日中、日韓関係の悪化で、加害を含めて先の大戦を多角的に捉えようという感覚さえ持ちにくくなっていると感じる。

 95年にアジア人の原爆観を長崎新聞記者として取材した石田謙二(58)は「戦争加害を扱う記事への反発は今の方が激しい。記者はより多くのエネルギーがいる」。長崎大名誉教授の舟越耿一(70)は90年代後半に高まった「自虐史観」批判の影響を指摘。「本島氏の平和宣言も今なら『自虐史観』とされるだろう。この言葉で、戦後共有された日本人の加害者意識が葬られようとしている」

 一方、市民団体「長崎の原爆展示をただす市民の会」代表、渡邊正光(79)は「日本の戦争加害ばかりを強調すれば原爆正当化につながる」とし、平和宣言での加害の言及に反対。「私は日本の戦争は侵略ではないと確信するが、すぐ国際社会に受け入れられるとも思わない。正確な歴史検証と誠実な対話が必要」とする。その上で「メディアは異なる歴史認識の合意点を探り、収れんする努力をすべき」と注文する。

 戦争責任、歴史認識をめぐる断絶は国内にも、日本と世界の間にもある。戦争体験者の多くが鬼籍に入る中、その深淵(しんえん)は放置されたままだ。

 平野と盧は書簡などで10年近く交流を続けたが、盧は死ぬまで考えを変えなかった。「それでも相互理解の努力を放棄してはならない」と平野。「核兵器廃絶を人類史的課題としてみれば、被害と加害といった二項対立を超えられる。われわれは過去の戦争責任は負わない。負うのは戦争を二度と起こさない未来をつくる義務だ」(文中敬称略)