被爆71年 原爆をどう伝えたか 第6部 1

銃撃された本島市長(当時)。足元に鮮血が広がった=1990年1月18日

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被爆71年 原爆をどう伝えたか 第6部 1 戦争責任と加害(1)

「本島発言」で議論沸騰

2016/03/24 掲載

被爆71年 原爆をどう伝えたか 第6部 1

銃撃された本島市長(当時)。足元に鮮血が広がった=1990年1月18日

戦争責任と加害(1)

「本島発言」で議論沸騰

 パーン。乾いた破裂音が長崎市役所玄関ロビーに響いた。1990(平成2)年1月18日、長崎新聞の市政記者、高橋信雄(65)=現特別論説委員=は、市長の本島等のぶら下がり取材をロビーで終え、3階の記者室に戻るためエレベーターを待っていた。「いたずらで誰か爆竹でも鳴らしたのだろう」。さして気に留めなかったが玄関に向かい、外に出た。

 玄関前に停車中の黒塗りの公用車。後部ドアが開き、本島が横向きに座っている。左胸を手で押さえ、鮮血が足元に広がる。「救急車!」。職員が叫んだ。市長が撃たれた-。瞬間、カメラがある記者室に走りだした。「読者に伝えるためには、写真だ」。平和を祈る被爆地長崎で、許し難い言論封殺テロが起きた。

 事件から1年以上前の88(昭和63)年12月7日、本島は定例市議会本会議で昭和天皇の戦争責任について議員に問われ、「あると思う」と答弁。天皇の病状悪化で全国的に自粛ムードが広がる中、発言は賛否両論を巻き起こす。市議会保守会派や自民党県連は「陛下の病状が悪化する折、不謹慎」と発言撤回を求めたが、本島は「政治家としての死を意味する」として応じなかった。右翼団体の街宣車が市役所を取り囲み、連日の抗議。刃物を持った男が秘書課に押し入ったり、市長に実弾入りの脅迫文が届いたりと異様な緊張感が漂っていた。

 本島の発言を支持する動きも生まれた。89年1月、有志による「言論の自由を求める長崎市民の会」が発足。戦後、天皇の戦争責任に関して押し黙っていた国民感情に本島の発言は火を付け、議論は沸騰した。

 当の本島は過剰な反響に疑問を呈した。「議会でも答弁した直後は平静で、何の反論もなかった。マスコミが取り上げ、騒ぎが大きくなった」と後に述懐した。

 傍聴席で発言を聞いた高橋も、当初は重く受け止めなかった。「1人の戦争体験者のごく自然な意見に聞こえた」からだ。だが翌日の長崎新聞は、社会面トップで「異例の発言に波紋」の見出し。市民の会の舟越耿一(70)=現長崎大名誉教授=は、この見出しを「自粛ムードに流された病んだ表現」と指弾する。

 当時のメディアは昭和天皇の病状報道に徹し、先の戦争の総括にまで踏み込めずにいた。高橋は「議論を起こしたいメディアが発言に飛び付き、政治的に仕立てた側面はある」と振り返る。(文中敬称略)

 「原爆をどう伝えたか」シリーズの最終章。戦争の時代「昭和」を終え、被爆地長崎は重要課題に直面する。90年代から現在まで、長崎新聞の平和報道を幾つかのテーマで検証し、今後の道筋を探る。