ナガサキの視点 ポスト被爆70年 上

新年を迎え、感慨と抱負を胸に神社の境内を歩く正林さん=1日午前0時5分、長崎市上西山町の諏訪神社

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ナガサキの視点 ポスト被爆70年 上 被爆者運動 高齢 風化「岐路」に挑む

2016/02/06 掲載

ナガサキの視点 ポスト被爆70年 上

新年を迎え、感慨と抱負を胸に神社の境内を歩く正林さん=1日午前0時5分、長崎市上西山町の諏訪神社

被爆者運動 高齢 風化「岐路」に挑む

 被爆70年の2015年が幕を下ろし、新たな1年がスタートした。核の惨禍を体験した被爆者は、平均年齢が80歳を超えるという「岐路」にあってなお、「戦争や核兵器のない世界を」と訴えている。体の衰えと人生の終わり方を意識しながら、残された時間の中で何を目指しているのだろうか。ポスト被爆70年。2回に分けて、被爆者運動の現状と、「継承」の問題を見つめる。

 ◎市民とともに考えたい

 白い息を吐きながら神社の階段を上る。新年の幕開けが迫っていた。

 「お諏訪さんに参ると気持ちが晴れやかになる。これをやらないと年を越した感じがせんのよ」。長崎原爆遺族会会長の正林克記さん(76)は、2年ぶりに諏訪神社(長崎市)で除夜に浸った。

 6歳のころ、爆心地から1・5キロで被爆し、下腹部に竹が突き刺さった。母は原爆症で亡くなった。活動の原点は壮絶な被爆体験であり、被爆者援護の充実を主な目的として、長年突き進んできた。

 昨年の年明けは病院のベッドにいた。それから激動の1年。闘病を周囲に悟られないようにしながら、同会や被爆者5団体の活動に精を出した。10月から12月中旬も入院したが、5団体の集まりや会見には「外出許可」をもらい参加した。

 今、同会の集まりでは財産管理や墓のことなど「終活」の話題が増えた。世界平和や核兵器廃絶の話はあまり出てこない。

 被爆71年のことしは、気持ちに余裕をもって自分の生活や人生を見つめ、本当に好きなこと、大切なことに時間をかけたい。同時に、被爆者に限らず市民と一緒になって、あらためて核兵器廃絶について考えてみたい。新年を迎え、そう思っている。

 ◎組織力衰え活動正念場

 全国の被爆者(被爆者健康手帳所持者)の平均年齢は昨年3月、初めて80歳台に乗り80・13歳。人数は18万3519人。前年からの減少幅は9200人で、これまでで最もたくさん亡くなった。

 「そろそろやめてもいいのではないか」。県被爆者手帳友愛会会長の中島正徳さん(85)は、会員からそうした声を聞く。現在10支部のうち3支部長が病気で倒れるなどして不在。後継者は見つかっていない。施設に入り、連絡が取れない会員もいる。登録会員は約1200人だが、会費を払っているのはその半分くらい。「正直なところ(組織は)あと10年は続かないだろう」。平和運動は継続したい。だが、妙案は浮かばない。他の4団体は被爆2世との連携を強めているが「2世を組織化し連携して活動していくだけの体力はない」と吐露する。組織をどうしていくのか。全会員に諮っているところだ。

 ◎国家補償を訴え続ける

 ことしは被爆者運動の源流ともいえる日本原水爆被害者団体協議会(被団協)、長崎原爆被災者協議会(長崎被災協)結成から60年を迎える。「核兵器廃絶は国際的な問題だと訴える上で、被爆者は大きな役割を果たしてきた」。被団協代表委員で長崎被災協会長の谷口稜曄(すみてる)さん(86)は積み重ねてきた運動の意義を強調する。自身も昨春、核拡散防止条約(NPT)再検討会議に合わせ渡米。体験を証言した。

 核兵器の非人道性への国際社会の認識は、広がりを見せている。昨年12月の国連総会では、核兵器なき世界の実現に必要な「具体的で効果的な法的手段」を討議する作業部会設置の決議案に、全加盟国の3分の2を上回る138カ国が賛同。被爆者の訴えが世界に届き始めたと感じた。

 一方で長崎被災協、被団協の結成当初から国家補償に基づく被爆者援護法制定を国に要求してきた。「(高齢化で)国への要望活動を増やすなどの新たな取り組みはもうできない。これまで通り訴えるしかない」。実現の見通しは立っていない。

 ◎伝え続けて平和の力に

 時代ごとの政治情勢に敏感に反応し、5団体は被爆地の顔としてマスコミの前に立ち、警鐘を鳴らしてきた。

 日本政府が進める新たな安全保障法制、原発再稼働、NPT未加盟のインドとの原子力協定締結の原則合意…。戦後70年が過ぎ、平和や核をめぐる問題は山積しているが、戦争を知らない世代が国民の多くを占める今、市民との意識の乖離(かいり)を感じることもある。「関係者以外は無頓着。原爆を体験していない人はたとえ長崎近辺でも(被爆者の願いを)あまり理解してもらえていないのでは」。県被爆者手帳友の会会長の井原東洋一さん(79)はジレンマを口にする。

 井原さんは、過酷な体験をした被爆者の訴え、被爆者の存在そのものが核兵器の非人道性に関する国際議論の基礎となり、核兵器使用を押しとどめる「抑止力」になってきたと確信する。だが被爆者はいずれいなくなる。「風化が一番怖い。伝え続けることこそ平和と安定・安心を守る力になる」。だからこそ、伝え続けていく存在として被爆2世に希望を託す。

 ◎流れはあるとの信念で

 正月の余韻が残る6日、北朝鮮が水爆実験を実施したと発表。緊急会見を開いた5団体の代表らは一様に、悔しさや怒り、無力感、焦りなどがないまぜになった複雑な表情を浮かべた。核兵器を脅しの道具として扱おうとする国家のエゴ。それを非難する国家もまた、核兵器を大量保有している状況。世界を覆う矛盾が、長年の被爆者の訴えと運動の前に、依然として立ちはだかっている。

県平和運動センター被爆連議長の川野浩一さん(76)は、核兵器廃絶を川の流れに例え、こう語る。

「(昨年7月に欧米など6カ国と核問題解決で最終合意した)イラン核協議など『せき止めていたものをやっと取りのぞくことができた』と思うと、また新たな問題が生じてせき止める。流れはわれわれにとってあまりにも緩やか過ぎて進まない。ただ全体としては流れそのものはあると思う。そういう信念で歩んでいく」

 ◎次代見据え二世の会発足

 米国の原爆投下で、浦上地区を中心に破壊された長崎の町。連合国軍総司令部(GHQ)のプレスコードによる厳しい言論統制などもあり、原爆でけがを負った女性たちが長崎原爆乙女の会を設立したのは被爆から8年後の1953年だった。

 乙女の会は同じ頃に誕生した長崎原爆青年会と統合。「団結して国家の補償が実現できるようにする」ことを目指し、長崎原爆被災者協議会(長崎被災協)が56年6月、全国組織の日本原水爆被害者団体協議会(被団協)も長崎で同年8月に発足。被爆者に対する援護充実と核兵器廃絶を訴える運動が本格化した。

 65年、原爆死没者遺族の声を集約するため長崎原爆遺族会が結成。一方、動員学徒への補償を求める運動の中で元動員学徒が67年、長崎被災協から独立し県被爆者手帳友の会を組織した。長崎被災協と遺族会、友の会は70年に連絡協議会をつくり、長崎の被爆者運動の中核的存在になった。

 その後、労働組合員が県平和運動センター被爆連、友の会の一部会員が県被爆者手帳友愛会を設立。現在では被爆者5団体として結び付きを強め、平和祈念式典後の首相との面会や核実験への抗議声明などは共同で取り組んでいる。

 一方、被爆者の高齢化を背景に、「長崎被災協・被爆二世の会・長崎」「同・諫早」が2012年にできるなど、次世代を見据えた取り組みも始まっている。

【編注】中島正徳さんの徳はツクリの心の上に一