被爆70年 年間企画
 原爆をどう伝えたか 長崎新聞の平和報道 第5部「礎」 6

「むつ」受け入れを審議した1978年6月臨時県議会は荒れた=県議会議場(写真はイメージ)

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被爆70年 年間企画 原爆をどう伝えたか 長崎新聞の平和報道 第5部「礎」 6 「むつ」
本質的議論 置き去り

2015/11/20 掲載

被爆70年 年間企画
 原爆をどう伝えたか 長崎新聞の平和報道 第5部「礎」 6

「むつ」受け入れを審議した1978年6月臨時県議会は荒れた=県議会議場(写真はイメージ)

「むつ」
本質的議論 置き去り

「『むつ』と被爆者は関係ない」-。衆院第1議員会館での記者会見で平然と言い放つ議員の言葉に、梅原紘児(73)=長崎市木鉢町=は耳を疑った。1977(昭和52)年2月、放射能漏れ事故を起こした原子力船「むつ」の佐世保港での修理受け入れをめぐり、地元自治体と政府の交渉は緊迫。梅原は長崎新聞東京支社の記者として、その動向を追っていた。

発言の主は、与党自民党が「むつ」対策で設置した特別委の委員長。地元では核への恐怖と拒否感から多くの被爆者が受け入れに不安を抱いていた。「関係ないはずない」。梅原が書いた「被爆者の感情を逆なで」の記事は、翌日の1面トップに載った。
会見には全国紙記者もいたが、問題発言を報じたのは長崎新聞と地元テレビ局だけのようだった。「被爆者の気持ちは全国では理解されていない」。中央との温度差は確かにあった。

一方、目の前で繰り広げられる政治的駆け引きに、面白さも感じていた。ある日、上京した知事(当時)の久保勘一が雑談中、急に国鉄幹部に電話をかけ始めた。「長崎の久保ですが、例のモノ、取りました」。当時の久保は「むつ」受け入れの「見返り」として長崎新幹線の優先着工を政府に要請していた。電話は、その確約を自民党から得たことを報告しているようにみえた。久保は受話器を置き、「書くなよ」と言い残し、立ち去った。後ろから秘書が小声でささやいた。「書けってことですよ」

「(知事は)長崎新幹線着工は間違いないとの感触を得た」。梅原の記事が載った朝、久保は上機嫌で県政記者室にやって来たと後日記者仲間に聞いた。「(確約を得たことを)公式には発言できない。だが県民には自分の成果を知らしめたい。老獪(ろうかい)な手法で地元紙がまんまと利用された」と今にして思う。

原子力行政のあり方や原子炉の安全性など本質的議論は置き去りにして、こうした政治交渉が話題の中心となっていた。「むつ」は「政治力船」とやゆされた。

受け入れを審議する78年5、6月の臨時県議会は反対派のやじと怒号が飛び交い、荒れた。賛成多数で受け入れが決まった瞬間、当時49歳の被爆者、谷口稜曄(すみてる)(86)=同市大鳥町=は傍聴席で震えた。「人の命を売って金をもうけるのか」。“見返り”に目がくらみ被爆地の心を忘れたように映った。その政治劇に加担した者たちを、今も許すことができない。(敬称略)