被爆70年 長崎の記憶 写真が語る戦前~戦後 第6部「新たな街並み」 下

軌道敷のバラック撤去で路面電車が走るようになった。右上の白い建物は県庁、左下は東宝富士館

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被爆70年 長崎の記憶 写真が語る戦前~戦後 第6部「新たな街並み」 下 明るい風景 いつまでも

2015/11/07 掲載

被爆70年 長崎の記憶 写真が語る戦前~戦後 第6部「新たな街並み」 下

軌道敷のバラック撤去で路面電車が走るようになった。右上の白い建物は県庁、左下は東宝富士館

明るい風景 いつまでも

三上秀治(83)=長崎市泉1丁目=は1955(昭和30)年、現在の浜町にあった岡政百貨店の屋上から市中心部の風景を切り取った(写真)。県庁や、市民に娯楽を提供していた映画館の東宝富士館が立ち、路面電車には人が集まっている。

「当時は電車が市民の足。全ての路線で復旧し、原爆被害からの復興を感じた」と振り返る。

原爆投下後、復興が進むにつれ、課題となったのが不法バラック家屋だった。「新長崎市史」などによると、長崎電気軌道は「長崎の復興は電車から」を合言葉に路線の復旧を急ぎ、45年11月の長崎駅前-西浜町-蛍茶屋開通を皮切りに順次、復旧。しかし、浜町-思案橋間は闇市のバラック群により妨げられていた。51年、同区間の闇市は銅座のハモニカ横丁に移るなどして撤去が進み、53年に開通。市内の路面電車の全路線がようやく開通した。

三上は懐かしむ。「ハモニカ横丁の各飲み屋は、10人も入れないほどの広さだった。毎日、仕事帰りの人でにぎわっていた」

今も昔も長崎人の心を躍らせるのは長崎くんち。55年の市役所通りは、道路の両脇に出店が並び、空き地にはサーカス団のテントも。「くんちは一大イベントだった」。写真から、変わらぬにぎやかな様子が伝わってくる。

戦後10年ごろの写真を多く撮影し、保管してきた三上は、被爆70年を過ぎて、こう考える。

「とにかく平和を願うだけ。これからの子どもたちの記憶に残る風景は、いつも明るい街並みであってほしい」(文中敬称略)