被爆70年 長崎の記憶 写真が語る戦前~戦後 第6部「新たな街並み」 上

中央右の白いテント付近で、平和祈念像ができて初の祈念式典が開かれていた(三上さん提供)

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被爆70年 長崎の記憶 写真が語る戦前~戦後 第6部「新たな街並み」 上 犠牲者を忘れていない

2015/11/05 掲載

被爆70年 長崎の記憶 写真が語る戦前~戦後 第6部「新たな街並み」 上

中央右の白いテント付近で、平和祈念像ができて初の祈念式典が開かれていた(三上さん提供)

犠牲者を忘れていない

長崎が地獄と化した「あの日」から10年後の1955(昭和30)年8月9日。空は晴れ渡っていた。被爆者の三上秀治(83)=長崎市泉1丁目=は、爆心地近くの小高い丘にある国際文化会館(現在の長崎原爆資料館)から松山、浜口地区にレンズを向けた。

煙突群が林立する場所はあの日、多くの命を奪われ工場機能は壊滅し、鉄骨が崩れ落ちそうなほどぐにゃりと曲がっていた三菱長崎製鋼所(爆心地から1・2キロ)。それが、本来の形を取り戻し、煙突からは白い煙が出ている。平和公園に目を転ずれば、平和祈念像が完成して初めてとなる祈念式典が執り行われている(写真)。

「二度と戦争したらいかん」「多くの人が犠牲者を忘れていないことを残したい」-。焼け野原から復興した街並みをファインダー越しに見詰め、シャッターを切った。

45年、13歳だった。学徒動員で長崎市の小島、丸山、寄合町一帯に長崎民友新聞(長崎新聞の前身)を配達していた。仕事を終え、出島付近の岸壁で釣りを楽しんでいたとき、サイレンが鳴った。ふと見上げた空に何か分からないが、白いものが三つ見えた。「危ない」と直感し、建物の陰に隠れた。爆心地から3・2キロ。大きなけがはなかった。

午後、真っ赤な炎が県庁を覆った。小島にあった自宅は窓ガラスが割れ、屋内もめちゃくちゃ。7歳上の姉は仕事先から帰って来なかった。それでも悲しんでばかりはいられなかった。その日を生きるだけで精いっぱい。「みんな、気を強く持っていた。世の中がそういう雰囲気だった」

(文中敬称略)

長崎新聞社は被爆、終戦70年に合わせ、個人所有の戦前-戦後の長崎の写真を募集した(8月で終了)。写真と提供者を紹介するシリーズ第6部は、購入したカメラで戦後10年の被爆地を丹念に撮った男性に話を聞いた。