夏の思い 被爆者アンケートから 4

「『戦争のない世界』を声を出して訴えていくしかない」と話す入井さん=新上五島町若松郷

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夏の思い 被爆者アンケートから 4 入井芳樹さん(85)=新上五島町若松郷=
救護被爆
平和をあきらめないで

2015/08/07 掲載

夏の思い 被爆者アンケートから 4

「『戦争のない世界』を声を出して訴えていくしかない」と話す入井さん=新上五島町若松郷

入井芳樹さん(85)=新上五島町若松郷=
救護被爆
平和をあきらめないで

新上五島町の県被爆者手帳友の会若松支部長として、近くの被爆者宅を車で一軒一軒訪ね、会報を配達している。高齢化が進み、地域の被爆者も65人のうち5、6月だけで4人亡くなった。私もがんの切除など手術の末、74キロあった体重が現在44キロまで落ちた。

被爆当時、諫早市の旧制県立農学校(現在の諫早農業高)の2年生だった。3年生とともに農作業中、「B29が来た」という声を聞き、長崎市の方向を見ると、上空を通過した2機のどちらかが白い物を落とすのが見えた。閃光(せんこう)が「ピカッ」と光り、「ドカーン」という音がした後、山から煙がモクモクと上がるのが見えた。太陽が真っ赤に染まった。その衝撃が大きく体験を人に話すことはほとんどなかった。

長崎から諫早駅に運ばれてきたけが人を、4人一組で戸板に載せ、旧制諫早国民学校へ運んだ。駅から学校までは約4キロの距離。その間「水をくれ」「お母さん、お母さん」と泣き叫んでいた。むせ返るような腐臭がしていた。

搬送した一人の女性が「おしっこがしたい」と言うので、学校のトイレに手を握り、連れて行った。手を離した途端、焼けた手の皮がペロリとめくれ、私の手のひらにこびりついた。2~3日間、鼻を突くにおいがとれなかった。

数日後、長崎市の三菱兵器工場に勤めていたいとこの姉の安否確認のため、いとこと一緒に向かった。崩れた浦上天主堂以外の場所が分からず、電車の線路伝いに逆戻りして帰った。いとこの姉は、後に佐世保に運ばれ亡くなったと耳にした。

被爆者アンケートの「次世代にどんなことを伝えたいと思いますか」との設問には、「平和な世界をつくってほしい」と記した。

人それぞれの性格や価値観が違うように、各国の思惑や思想も異なる。世界から核兵器を廃絶するために、国はまず国同士で話し合う場を何度でも設けるべきだと思う。平和な世界が訪れるその日まで、絶対にあきらめず努力してほしいと願っている。