戦後70年・被爆70年 表現者たちは 継ぐ 5

長崎ゆかりの歌人、斎藤茂吉歌碑前で語る久保さん=長崎市桜町、桜町公園

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戦後70年・被爆70年 表現者たちは 継ぐ 5 長崎の短歌
コスモス短歌会 久保美洋子さん
記憶なき「あの日」負う

2015/08/12 掲載

戦後70年・被爆70年 表現者たちは 継ぐ 5

長崎ゆかりの歌人、斎藤茂吉歌碑前で語る久保さん=長崎市桜町、桜町公園

長崎の短歌
コスモス短歌会 久保美洋子さん
記憶なき「あの日」負う

短歌結社「コスモス短歌会」の久保美洋子さん(71)=長崎市八幡町=が、母の背で原爆の閃光(せんこう)を浴びたのは1歳2カ月の夏。「記憶なき被爆」への思いを31文字に重ねてきた。

「爆心地から6キロ東の現川(現長崎市現川町)の遠い親戚の家に疎開していた。私を背負って台所仕事をしていた母は、後ろから大きな光を受けた」。母から聞いた「あの日」は、ほんの少ししかない。

戦後、市中心部を流れる中島川沿いの町で育ち、「被爆者」という意識は薄かった。幼いころから裏千家の茶の湯に親しみ、39歳から茶道と縁の深い短歌を学び始めた。昭和を代表する歌人、宮柊二が主宰する「コスモス」で頭角を現し、長崎歌人会会長などを務めた。

「原爆」を詠み始めたのは二十数年前。歌誌「桟橋」編集人の高野公彦さんに背中を押された。「記憶なき被爆を背負うのは大変なことだけど、詠まないといけない」。それでも語る体験を持ち得ないのがもどかしく、語っている人がうらやましかった。

「原爆」と向き合っていく道標となったのは、長崎で被爆した竹山広さん(1920~2010年)の歌。兄を捜して原子野をさまよい、脳裏に深く刻み込まれた光景を、60歳を過ぎてから第一歌集「とこしへの川」(1981年)に編んだ。

居合はせし居合はせざりしことつひに天運にして居合はせし人よ

竹山さんが95年の阪神大震災を詠んだ一首(歌集「千日千夜」)が印象深い。難に合ったのも合わなかったのも「運命」-。その根底に流れる犠牲者たちへの鎮魂の思いは、深く温かい。「原爆でも、東日本大震災でも同じようなことがあったはず」。いつの世にも通じる普遍性に心引かれている。

放射線は母の心をむしばみて増殖つづけゐしなり 憎し

被爆70年の夏、16年前に逝った母を思い詠んだ。老いるにつれ、「あの日」背負っていた娘に繰り返しわびていた。「背中越しに受けた原爆の光を娘に直接浴びさせてしまったと苦しんでいたのだろう」。母の「居合はせし」自責の念がずっと、その心に大きな影を落としていたと悟った。

一歳にて原爆受けしわが身なり七十年は被爆の歴史

竹山さんの歌を手掛かりに、「あの日」の記憶を丹念に埋め、母の思いに寄り添い歌を詠む。「記憶なき被爆者」が示す道しるべはこれからも続く。