つなぐ広島・長崎 被爆樹木をめぐる物語 3

原爆投下直後の大村海軍病院長だった泰山弘道さんがまとめた「長崎原爆の記録」の自筆原稿(長崎大所蔵)。山口仙二さんら被爆者の被害状況などが記されている=長崎市坂本1丁目、同大医学部

ピースサイト関連企画

つなぐ広島・長崎 被爆樹木をめぐる物語 3 記憶
成長し懸命に生き抜く

2015/07/23 掲載

つなぐ広島・長崎 被爆樹木をめぐる物語 3

原爆投下直後の大村海軍病院長だった泰山弘道さんがまとめた「長崎原爆の記録」の自筆原稿(長崎大所蔵)。山口仙二さんら被爆者の被害状況などが記されている=長崎市坂本1丁目、同大医学部

記憶
成長し懸命に生き抜く

「子どもたちはどうしているだろう」。2008年、横浜市南区の長崎源之助さんの自宅。長崎さんは同年出版した絵本「汽笛」に登場する原爆孤児のモデルとなった大村海軍病院の子どもたちが、どんな人生を歩んだのか気に病んでいた。その思いに触れた鳥居吉治さん(54)=山口県下関市=は、当時の子どもたちを捜すと決めた。鳥居さんは当時、横浜のケーブルテレビ局に勤務。「汽笛」を読み、話を聞きたいと長崎さんを訪ねたのだった。
和歌山県生まれで4歳から東京で暮らしてきた鳥居さんにとって原爆は身近ではなかった。それでも長崎さんの言葉に突き動かされ、長崎市や長崎大の関係者らに当たった。そうした中、長崎原爆被災者協議会の元会長、山口仙二さん(13年7月に82歳で死去)や現会長の谷口稜曄(すみてる)さん(86)が大村海軍病院に入院していたことが分かった。だが山口さんは療養中。やっと谷口さんと連絡が取れ、10年9月、谷口さんは横浜の病院に入院した長崎さんと対面した。

「汽笛」には、顔半分がケロイドでゆがみ片耳がない小学6年くらいの少年が登場する。谷口さんはこの少年が吉田勝二さん(10年4月に78歳で死去)だと直感した。吉田さんは13歳の時、現在の長崎市江里町(爆心地から850メートル)で被爆。顔に大やけどを負い、1945年秋に大村海軍病院に運ばれた。植皮手術などを受け、1年余りを同病院で過ごした。
一方の谷口さんは16歳の時、被爆。同病院での入院生活は3年7カ月に及んだ。原爆投下直後に約千人の被爆者を収容したとされる同病院だが、谷口さんの記憶では、長崎さんが入院していた46年2月ごろは被爆者の多くが死亡、退院し、同じ病室に被爆者や引き揚げ者、傷痍(しょうい)軍人らが入り交じっていた。
吉田さんは植皮手術を受けた顔半分に傷が残ったままだった。周囲の視線に悩み続けたが87年から語り部活動を開始。明るい立ち居振る舞いで聞く人の心を和ませながら国内外で過酷な体験を精力的に伝え、核兵器の非人道性を訴え続けた。
「『生きていてよかった』『生きているってすばらしい』 そんな気持ちを味わうことがあったでしょうか。」-。「汽笛」の終盤にそうつづった長崎さんだったが、懸命に生きた吉田さんのその後の人生を谷口さんから聞き、表情が少し和らいだという。