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原爆をどう伝えたか 長崎新聞の平和報道 第3部 混沌 6 占領期から独立まで
住宅難の中「復興祭」
「祭はすんだが…」
秋月氏「何一つ解決していない」

2014/12/21 掲載

占領期から独立まで
住宅難の中「復興祭」
「祭はすんだが…」
秋月氏「何一つ解決していない」

年間企画「原爆をどう伝えたか」第3部「混沌」は、戦後の占領期(~1952年4月28日)の被爆地長崎と報道を見詰めている。
この時期は、まさに激動の時代。原爆投下により、世界では米ソが対立する東西冷戦の幕が上がり、核開発競争が拡大していく。
日本は45年8月、連合国軍最高司令官ダグラス・マッカーサーが厚木飛行場に降り立った。連合国軍総司令部(GHQ)は農地改革、公職追放を指示。昭和天皇の神格性を否定する「人間宣言」が発表され、日本の戦争責任を追及する東京裁判は46年5月に始まった。47年5月、日本国憲法施行。銀行員12人が毒殺、現金強奪された48年の帝銀事件、国鉄初代総裁が死体で見つかった49年の下山事件など大事件も続発する。
GHQ命令の50年のレッドパージは、共産党員や支持者が公職や企業から解雇、追放される形で広がる。同年6月、朝鮮戦争が勃発し、8月には警察予備隊発足。そして52年4月、サンフランシスコ講和条約発効により、日本は占領統治から独立する。

長崎では46年11月に10日間の復興祭が開かれ、花電車や龍踊りも登場。閉幕後、長崎新聞は「祭はすんだが…」の見出しで住宅建設が進まない状況を批判。「家もない着る物も持たない人にとっては復興祭はなんだか空々しい」と書いた。
長崎新聞は同年12月に4社分離。長崎日日新聞は47年1月、戦災者らの住宅難を報じた。入居が許された未完成の簡易住宅は窓ガラスもなく、「寒くて眠れない」という声を伝えた。
放射線被害の記事は、「まだ残る白血球の異常」(47年2月)「原因は亜白血病 浦上に今なお原子症状」(51年1月)「被爆者に多い白血病」(52年3月)-など数えるほど。
浦上のカトリック関連の行事や話題は頻繁に紙面を飾った。永井隆博士関連は、その病状や死去後も含めて極端に分厚い展開。長崎地裁所長の石田壽氏は寄稿や座談会などで活躍した。
被爆医師の秋月辰一郎氏は投稿で複数回登場。47年8月12日付「時評」欄のエッセー「歴史を作るもの」では、国際情勢を踏まえ「深刻な世界の対立は、世界の危機をはらみつつあると同時に、これがこのまま祖国日本の現状でもある。そして何一つとして解決はしていない」と指摘。引き揚げ後に帰崎し家族も家も何一つなく焼け跡に涙を流す青年、一瞬で孤独となり最愛の人と決別した人、深刻な傷を受け苦痛にさいなまれている人らを挙げ、「そのような苦痛の一切をたえながら、やがて次の世界史を作る人がこの中から生ずるであろうことを確信している」と期待を込めた。
50年の朝鮮戦争勃発後、8月9日の行事は突然中止。紙面的にも永井博士関連を除けば原爆、被爆地関連の記事は減少する。

前回特集(10月5日付)では、長崎原爆投下翌日(45年8月10日)から約1年間の長崎新聞の主な見出し一覧を掲載した。今回は、引き続き46年8月から52年4月までの長崎新聞、長崎日日新聞の見出し一覧を紹介する(表参照)。原爆、平和、復興などの関連記事を約730本抽出し、絞り込んだ。前回特集と合わせて、占領期の見出しを概観できる。