この場所で… 刻まれた原爆の記憶 1

弟をみとった防空壕があった場所(左後方)で当時を語る永野さん=長崎市銭座町

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この場所で… 刻まれた原爆の記憶 1 弟をみとった防空壕付近(銭座町)
永野悦子さん(85)(旧姓金澤)=長崎市扇町=
募る後悔「私が死ねば」

2014/07/24 掲載

この場所で… 刻まれた原爆の記憶 1

弟をみとった防空壕があった場所(左後方)で当時を語る永野さん=長崎市銭座町

弟をみとった防空壕付近(銭座町)
永野悦子さん(85)(旧姓金澤)=長崎市扇町=
募る後悔「私が死ねば」

長崎市立銭座小に程近い住宅地。ここにはかつて防空壕(ごう)があり、その中でわずか9歳の弟清二をみとった。

「トンボ捕りに行く」。あの日、弟は母シナにそう言って駆けていったまま、行方が分からなくなった。翌日、近くの防空壕に弟がいると幼なじみから教えてもらい、向かった。

全身にやけどを負い、一晩を1人で過ごしたらしい。顔は真ん丸に膨れ、男か女かも分からなかった。「清ちゃんね」。ゆっくりとうなずいた。抱き上げようとした父新之重の手に、やけどの皮膚がべっとりとくっついた。

診療所に運び、はけで白いドロドロした薬を全身に塗ってもらった。自宅は全焼したので家族で別の防空壕に入り、弟を横たえた。爆心地からは約1・5キロの距離。弟はやけどがひどく、さすってやることもできず、頑張ってと声を掛け続けた。

11日、壕の中で弟は息を引き取った。板切れを集めて火葬した。「一緒に死にたい」と炎の中に入ろうとして止められた母は、拾った茶わんに骨を集め、ずっと胸に抱いていた。

終戦後、親戚のいる小浜に身を寄せた。9月、妹邦子の体に紫の斑点が現れた。歯茎から血が出て、髪の毛が抜け落ちた。のたうち回って苦しんで、1週間後に逝った。13歳だった。

清二と邦子を思うと胸が締め付けられ、涙が出る。1945年3月、母が止めたのに私は2人を疎開先の鹿児島から連れ戻した。一緒に暮らしたかったから。2人は鹿児島の友人と離れるのが嫌で泣いたが、無理に手を引っ張って帰った。

私は爆心地から2・8キロの長崎経済専門学校(現・長崎大経済学部)で飛行機の部品作りに従事していて被爆。けがもなく生き延びた。母が亡くなるまで50年、後悔と申し訳なさで、苦しくてたまらなかった。私が死ねばよかったと思っていた。

悲しい記憶を呼び起こすこの場所は見るのもつらく、これまで1度しか訪れたことがなかった。

来月9日で被爆から69年になる。長崎には原爆投下の痕跡が、既にわずかしか残っていない。しかし、無差別殺りくの事実は、被爆者の記憶とともに街のあちこちに染み付いている。その場所で振り返る。