戦闘機パイロット 終戦68年目の証言 4

1945年8月9日、大村市松原地区(鹿ノ島)から撮影された長崎原爆のきのこ雲(長崎原爆資料館提供)

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戦闘機パイロット 終戦68年目の証言 4 二つの原爆 B29に体当たり覚悟
「出撃命令さえあれば…」

2013/08/16 掲載

戦闘機パイロット 終戦68年目の証言 4

1945年8月9日、大村市松原地区(鹿ノ島)から撮影された長崎原爆のきのこ雲(長崎原爆資料館提供)

二つの原爆 B29に体当たり覚悟
「出撃命令さえあれば…」

1945年8月6日午前7時半ごろ。本田稔(90)は、兵庫県姫路市の川西航空機(当時)の工場で補充機として受け取った戦闘機「紫電改」に乗り込み、大村市の第343海軍航空隊に向けて飛び立った。

高度5千メートル。広島城と広島の市街地が見えてきた。すると突如、爆風に襲われた。かじが利かなくなり、機体は500メートルほど落下。何とか持ち直したが、眼前には信じられない光景が広がっていた。

「建物はなくなり、電柱が5、6本傾いて立っているのが見えた。下から赤黒い雲を包んだ白い光のようなものが、ものすごい勢いで上ってきた」

8時15分、米爆撃機B29が投下した広島原爆だった。「町が一瞬にして消えた」。大村市に帰隊して話しても誰も信じてくれなかった。

3日後の9日午前11時2分、部隊で早めの昼食を取っていると、「ドーン」と大きな音がした。今度は長崎原爆だった。

「長崎がやられ、病院もだめになった。被害者を大村海軍病院(現・国立病院機構長崎医療センター)に運んでほしい」。午後3時ごろ、部隊から指示を受けた。手の空いた隊員15人を連れて急いで病院へ行くと、近くの線路に貨車が到着していた。

中には大人約20人が横たわっていたが「みんな死んだような感じだった」。裸で髪の毛もなく、体の前後の見分けがつかないほど焼けただれた人、鼻が溶けつるんとした顔の人-。担架に乗せようと腕をつかむと、肉がずるっとはげた。

「こんなことがこの世にあっていいのか」。涙が止まらなかった。泣きながら担架で運んだ。病院の中は既に負傷者でいっぱいで、広場の土の上に並べた。

「また同じ爆弾を積んだB29が来たら、1番機になって体当たりしてでも止める。2番機を務めてくれ」。本田は部隊の源田實司令から頼まれ了承した。広島の原爆投下を目の当たりにしてから、体当たりする覚悟は既にできていた。

広島、長崎ともに投下前、空襲警報は出なかった。一方、日本軍上層部は、長崎原爆投下に向けた米軍の動きをつかんでいたのに対応しなかったとする報道もある。「出撃命令さえあればB29を止めていた。何で命令しなかったのか。悔しくてならない。投下を防げず、今も長崎の人に対し、誠に申し訳なく思っている」。本田の目に涙がにじんだ。=文中敬称略=