戦闘機パイロット 終戦68年目の証言 3

国内に唯一現存する紫電改。1945年7月に大村海軍航空基地を出撃して未帰還となり愛媛県の海底から引き揚げられた=愛媛県愛南町、紫電改展示館(同館提供)

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戦闘機パイロット 終戦68年目の証言 3 本土防衛
最新鋭 紫電改で抗戦
“多勢に無勢” 部隊消耗

2013/08/15 掲載

戦闘機パイロット 終戦68年目の証言 3

国内に唯一現存する紫電改。1945年7月に大村海軍航空基地を出撃して未帰還となり愛媛県の海底から引き揚げられた=愛媛県愛南町、紫電改展示館(同館提供)

本土防衛
最新鋭 紫電改で抗戦
“多勢に無勢” 部隊消耗

1944年後半、米軍は西太平洋の「マリアナ沖海戦」で日本海軍に圧勝し、サイパン島、テニアン島などを相次ぎ占領。後に日本の本土空襲を激化させ、原爆も投下した爆撃機B29の出撃拠点を確保した。追い込まれていた日本軍はその後、特攻隊まで投入するようになった。

こうした中、大本営航空主務参謀の源田實は12月25日、本土防衛部隊「第343海軍航空隊」(剣部隊)を編成。源田は著書で「たとえ数は少なくても、見つけた敵機を片っ端から撃ち落とし、進撃を食い止める」と狙いを説明している。熟練パイロットを集め、自ら司令に就き、愛媛県の松山航空基地に拠点を置いた。本田稔(90)も一員となった。

零戦を上回る馬力と攻撃力、防弾装備を備えた最新鋭戦闘機「紫電改」を中心に3飛行隊に二十数機ずつ配備。本田は「とにかくいい戦闘機だった」と語る。主に鹿児島県・喜界島までの九州を舞台に、B29や戦闘機グラマンF6Fヘルキャットなど、多いときは数百機単位の「空が真っ黒になるほどの大編隊」(本田)の迎撃に向かった。

剣部隊の初陣は45年3月。「戦史叢書 本土方面海軍作戦」(朝雲新聞社)によると、四国上空でF6Fなど約100機を発見し51機が出撃。敵を42機撃墜し、味方の被害は17機にとどめ「航空兵力による久々の戦勝」とされた。

米軍は4月に沖縄上陸。来襲が激化すると、部隊は間合いを取るため鹿児島県の鹿屋、国分を経て4月末、大村市の大村海軍航空基地へ拠点を移し抗戦した。

本田は「特にB29を落とすのが難しかった」と振り返る。全長は紫電改の3倍の約30メートルで防御力に優れ、四方八方に射撃するためうかつに近づけなかった。

ただ「真上からの攻撃に対応しにくそうだった」。高度約8千メートルのB29のさらに約2千メートル上空から背面で急降下し、弾幕をぬって射撃、相手の目の前を垂直に抜ける方法を取った。「体当たり寸前。急降下時の重力は気を失うほどだった」。この戦法を5、6機連続で仕掛け、1機落とせるかどうかだった。

「三四三空隊誌」によると、部隊は発足から終戦までの約8カ月間で敵機170機を撃墜。一方、パイロット・地上員ら161人を失った。勢いを増す米軍。”多勢に無勢”で部隊は消耗した。本田はある戦闘時に弾が切れ、敵機6機に追われ「もうだめか」と思ったが、何とか振り切ったという。

=文中敬称略=