ナガサキの被爆者たち 下平作江の生き方 4

千羽鶴を手に半生を振り返る下平さん。頭上で夫の遺影が見守る=長崎市内の自宅

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ナガサキの被爆者たち 下平作江の生き方 4 支え
夫と二人三脚 語り部
「家庭」心底の幸せ

2013/08/07 掲載

ナガサキの被爆者たち 下平作江の生き方 4

千羽鶴を手に半生を振り返る下平さん。頭上で夫の遺影が見守る=長崎市内の自宅

支え
夫と二人三脚 語り部
「家庭」心底の幸せ

「ここまで活動を続けてこられたのは主人のおかげ」。被爆体験の語り部、下平作江(78)は長崎市内の自宅で、夫の隆敏=昨年3月に83歳で死去=の遺影を見つめた。

隆敏とは幼少期からの顔なじみだった。戦時中に身を寄せた滝川家の近くに自宅があり、「下平のお兄ちゃん」と呼んでいた。戦後も、妹と暮らしたバラックの斜め前に住んでいた。

育ての父、滝川勝は医師か教師に嫁がせようと見合い話を持ってきたが、2人の気持ちは既に固まっていた。妹が自殺した後の20歳の時、滝川の被爆者仲間に仲人を頼んで納得させ、1955年に結婚。隆敏は26歳だった。

妹の自殺で孤独に陥ったころから一転。被爆による出産への不安は大きかったが、57年に双子の姉妹を授かった。その後、子宮筋腫が分かったが、59年に長男を出産するまで摘出を待った。血のつながった親子の愛情、「普通の家庭」のぬくもりは、心底の幸せを与えてくれた。

隆敏は、爆心地から4・5キロの三菱重工長崎造船所で修理中の潜水艦の中で被爆した。戦後は同造船所の設計部門に勤めたが、被爆の影響からかバセドー病になり、手の震えで思うように仕事ができないでいた。

育ちざかりの子ども3人を抱え、家計を支えるため、仕事を始めた。化粧品のセールスは40年以上続け、現在も籍を置く。活況を呈していた端島(軍艦島)に渡ると、商品を詰め込んだトランクが帰路では空になった。保険の外交員などもした。

約30年前から被爆者運動に本格的に加わるようになると、隆敏に全面的に協力してもらった。費用がかかる海外渡航では「おいのボーナス、みんな持って行くとか」と冗談交じりに言いながらも、快く応じてくれた。長期間家を空ける際は”主夫”として家事をしてくれた。

隆敏は晩年、肺がんなどで入院生活を送った。帰宅を楽しみにしていた退院日の朝。容体が急変し、駆け付けた時は意識がなかった。爆死した育ての母や自死した妹らと同じように、またも突然の別れ。心は沈んだが、子どもたちが励ましてくれた。

「支え合うことの大切さは両親から学びました」と長女の敏子(55)が誇らしげに語る。朝と夕、食事の支度をし、週末には次女や長男も手伝って、語り部で忙しい母を支えている。=文中敬称略=