伝える被爆遺構 国登録記念物へ 4(完)

死んでいった医学生たちについて門柱の前で語る市丸さん=長崎市坂本1丁目

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伝える被爆遺構 国登録記念物へ 4(完) 旧長崎医科大学門柱
変わらぬ姿で核を警告

2013/06/25 掲載

伝える被爆遺構 国登録記念物へ 4(完)

死んでいった医学生たちについて門柱の前で語る市丸さん=長崎市坂本1丁目

旧長崎医科大学門柱
変わらぬ姿で核を警告

一対の門柱(爆心地から約700メートル)。片方は「長崎醫科大學」と記され、原爆の爆風で傾いたまま。もう片方は「長崎醫科大學附屬藥學専門部」と刻まれている。

「毎日、通っていた」-。重厚な門柱を見つめ、旧長崎大原爆後障害医療研究施設の元施設長、市丸道人さん(88)=長崎市扇町=が語った。「私はいまだ命、永らえている」

当時、長崎医科大1年。片淵2丁目の下宿から大学へ向かう際、満員の路面電車を見送り、次の電車が事故で来なかったため下宿に戻った。友人との会話中に大きな衝撃を受け、ガラス窓は粉々に。大学に向かおうとしたが、長崎駅前から先は猛烈な火災で進めなかった。

翌日、同大付属病院へ。道中は地獄そのもの。太ももの皮膚が剥ぎ取られて垂れ下がっている人、飛び出た自分の腸を持って歩いている人もいた。

長崎原爆戦災誌によると、同大は爆心地から約500メートル、付属病院は約700メートル。市丸さんは、病院で旧制佐賀高時代からの同級生、中村清一さんと再会した。中村さんは、当直の友人に弁当を届けるため大学に行き、被爆。ぐったりしていたが、見たところけがはない。「よかった」。無事を喜び合った。周囲を見ると、座ったり寝転んだりして動かない人が大半。

市丸さんは、中村さんを含め友人数人をリヤカーで下宿に連れ帰り、休ませた。毎日、生き残りの学生を捜しに出掛けたが、下宿に戻れば友人の誰かが亡くなっていた。中村さんは、3、4日後に亡くなった。市丸さんは自らの手で火葬。かき集めた木材と一緒に燃える遺体を見つめた。

同大の学生には、席に座ったまま骨と化した人もいたと聞いた。約900人が死亡。市丸さんは同級生73人を亡くした。卒業後、長崎大で原爆後障害研究に力を注ぎ、退官後も85歳まで医師を続けた。

この場所で多くの医学生らが逝ったが、傾いた門柱は、あの日のまま在る。「門柱は爆風の威力を示している。人類を滅亡させる可能性がある核の警告として、残していかなければならない」。市丸さんは、そう語った。