ナガサキの被爆者たち 谷口稜曄の生き方 7(完)

「生きている限り訴え続けたい」と穏やかな表情で語る谷口さん=長崎市内の自宅

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ナガサキの被爆者たち 谷口稜曄の生き方 7(完) 決意
闘う「生きてる限り」
核廃絶と国家補償 訴え

2013/03/23 掲載

ナガサキの被爆者たち 谷口稜曄の生き方 7(完)

「生きている限り訴え続けたい」と穏やかな表情で語る谷口さん=長崎市内の自宅

決意
闘う「生きてる限り」
核廃絶と国家補償 訴え

今年1月、長崎被災協会長の谷口稜曄(すみてる)(84)は寒風にさらされながら、JR長崎駅前の街頭に立っていた。被爆者援護法の改正を求める署名活動。被爆70年を迎える2015年の法改正を目指す被団協の運動の一環。法改正を求める長崎被災協の街頭活動は8年ぶりだった。

「国は償え」。被団協は、1956年の結成当初から国家補償に基づく援護法の制定を国に求めてきた。57年施行の原爆医療法で国費による被爆者の健康診断と原爆症の治療が始まり、68年施行の原爆特別措置法で健康管理手当などが支給されるようになった。だが被爆死した人への弔慰金などの支給はなかった。

「全ての原爆犠牲者に代わり、早急な援護法制定を切望する」。80年4月、谷口は長崎市内であった原爆被爆者対策基本問題懇談会の意見陳述で委員らに訴えた。「基本懇」と呼ばれる厚生相(当時)の私的諮問機関で、79年6月から被爆者対策の基本的な在り方を検討していた。

「すべての国民が等しく受忍しなければならない」。80年12月の「基本懇」答申は「受忍論」を打ち出し、一般戦災者を含め国家補償の門を閉ざした。「原爆投下は国際法違反」という被爆者の訴えには触れずじまい。「何のために私たちの話を聞きにきたのか」。谷口らは激しく憤った。

被団協はその後も運動を展開。被爆50年の前年に当たる94年、自社さきがけ連立の村山政権下で旧原爆医療法と旧原爆特別措置法を一本化させた被爆者援護法が成立したが「国家補償」という言葉は盛り込まれなかった。被爆者の訴えは原爆投下から68年がたとうとする今も実現していない。

被爆国でありながら、米国の「核の傘」に依存し続ける日本政府。谷口は訴え続ける理由をこう語る。「原爆被害は国が始めた戦争の結果。償うことが再び被爆者をつくらない決意の表れとなる。だが国は戦争責任を認めず、償おうともしない。そうした姿勢が政策に表れている」

谷口の一日は自宅近くの神社にご飯を供えることから始まる。かつて近くに暮らしていたお年寄りとの約束を約40年間守り続けている。午前9時すぎには長崎被災協の事務所へ。家族は「毎日行かんでも」と体調を心配するが、本人は意に介さない。「生きてる限り、頑張らなきゃ」。谷口は自らを、そして多くの人を苦しめ続ける核兵器という存在ときょうも闘う。この世から全てなくなる日を求めて。 =文中敬称略=