8月15日 何をしていましたか 上

「ラジオ放送が聞き取れず議論になった」と語る才津さん=五島市坂の上1丁目の福江ケーブルテレビ本社

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8月15日 何をしていましたか 上 福江商工会議所会頭の才津為夫さん
諫早でラジオにかじりつく

2012/08/13 掲載

8月15日 何をしていましたか 上

「ラジオ放送が聞き取れず議論になった」と語る才津さん=五島市坂の上1丁目の福江ケーブルテレビ本社

福江商工会議所会頭の才津為夫さん
諫早でラジオにかじりつく

1945年8月15日、勤務先の旧制諫早中の職員室で、教職員たちはラジオにかじりついていた。前日から「15日正午にラジオで重大な放送があるらしい」とうわさになっていた。しかし、雑音が混じってよく聞き取れない。「戦争が終わったらしい」「もう少し耐えろと言っていた」-。議論になったが結論は出なかった。数時間後、学校に届いた一枚の新聞の号外かビラに「終戦」の文字を見つけた。悔しさと安堵(あんど)感が絡み合った。

18歳で、航空兵の卵を育成する2級滑空士だった。同年4月に諫早中に赴任し、エンジンを搭載しない1人乗り滑空機(グライダー)の初級訓練の指導などを担当していた。 初級訓練は滑空機の先端の長いゴムを5人で引っ張り、その反動を使って空へ飛ばす。旧制五島中の生徒だったころは部活動のような位置付けだったが、航空兵が著しく足りなくなったらしく、45年から中学の正式科目になると聞いた。このため44年に五島中を卒業後、滑空機の指導者を目指した。

上昇気流に乗ると100メートルほどの高さまで上がる。上空では翼を動かして機体を安定させる。大きく揺れることもあったが、怖いと感じた記憶はない。戦争に勝つことだけを考えていた。熊本での2カ月の指導者訓練を経て、晴れて資格を取った。だが諫早中に赴任後は戦火が広がり、攻撃を受けた工場の復旧作業などに生徒も駆り出され、訓練どころではなくなった。

8月9日、午前11時に授業を終え、宿直室の畳に寝転がった瞬間、かすかに突き上げる振動を感じた。夕方、全校生徒と教職員は諫早駅へ。真っ赤にやけどした人たちで駅は埋め尽くされた。ほぼ連日、列車で長崎から運ばれてくる負傷者を救護。いつか諫早も「特殊爆弾」にやられるという恐怖心が常にあった。

敵の機影は16日以降、消えた。かつて滑空機で幾度も飛び回った空を見上げ、その静けさに戦争の終わりをようやく実感した。

2カ月後、長崎の中学に転勤したが、2級滑空士の資格は意味をなさなくなり郷里の五島へ舞い戻った。

振り返れば戦中の教育は決して良いものではなかった。ただ近年は政治家を含め、自己の利益に走る人が多いようにも感じる。公に尽くす滅私奉公の精神は、逆に今の世には必要ではないだろうかと時折思う。

日本の降伏を昭和天皇が国民に伝えた45年8月15日の玉音放送。戦争が終わり、日本人の価値観が転換する節目となったその時、どこにいて何を感じたか。県内の80代から90代の3人に聞いた。

【略歴】さいつためお 1927年旧五島三井楽町生まれ。44年旧制五島中を卒業後、45年旧制諫早中に赴任。54年に建設会社「才津組」を五島で創業。県建設業協会五島支部長など歴任。96年から福江商工会議所会頭。現在6期目。福江ケーブルテレビ会長。