ナガサキの被爆者たち 山口仙二の生き方
  5(完)

「命尽きるまで、頑張れるだけ頑張りたい」とほほ笑む山口仙二さん=雲仙市内

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ナガサキの被爆者たち 山口仙二の生き方 5(完) 願い
8月9日を忘れないで 自分の人生「一口では言えない」

2012/08/08 掲載

ナガサキの被爆者たち 山口仙二の生き方
  5(完)

「命尽きるまで、頑張れるだけ頑張りたい」とほほ笑む山口仙二さん=雲仙市内

願い
8月9日を忘れないで 自分の人生「一口では言えない」

長崎県雲仙市のケアハウス。ゆっくりとした時間が流れる中、山口仙二(81)は妻幸子(77)と暮らす。約30年前に建設会社をたたんだ後、五島の有川に居を構えたこともあったが、雲仙岳のふもとについのすみかを得た。2人の娘は家庭を持ち、合わせて7人の孫がいる。

車いすから恒久平和を訴え続けた渡辺千恵子(1993年に64歳で死去)ら多くの仲間がこの世を去った。仙二も入退院を繰り返し、98年に長崎原爆被災者協議会(長崎被災協)の会長を退いた。

「はあはあ」-。時々息遣いが荒くなる。毎年決まって梅雨から夏場は体調を崩す。気持ちもふさぎがちで、幸子と言葉を交わすことも少ない。

夫婦のやりとりは、天気のことや、昔からの知り合いが今どうしているか-。

その一人、仙二が被爆者運動を始めたころからの付き合いという80代の女性は、原爆で顔などに熱傷を負った。結婚し47年に男の子を出産したが、8日後に病死。相手の親から離婚を言い渡された。その後は仙二の会社などで働き、今は弟と暮らす。「もうぼけてしまって。恥ずかしい人生。人さまにお話できるようなことはありません」。多くを語ろうとはしない。

この女性の言葉を伝え「仙二さんは自分の人生をどう思いますか」と尋ねてみた。

「私に限らず、誰でもいろいろあるでしょう。原爆を浴びなければ(私の人生も)変わっていたと思う。一口では言えない。あなたは今の人生をどう思ってますか。今の仕事に満足していますか」

テレビや新聞を見ることも少なくなった。福島で起きた原発事故のことも詳しくは分からない。だが、核の恐ろしさを身をもって知る仙二は「核兵器も原発も同じ。ない方がいいに決まっている」と話す。

仙二は75年、長崎の平和祈念式典で被爆者代表として「平和の誓い」を読み上げた際、放射線漏れ事故を起こした原子力船「むつ」の修理・点検のため佐世保入港(78年)を申し入れた日本政府を非難した。

「平和利用にせよ、被爆県長崎に入港の申し入れをするなど『核』に対する認識があまりにも安易だ」

被爆67年目の夏。核兵器はいまだ世界に存在する。「(核兵器を)持っている国と持っていない国があることが問題」と言う。

体と心に焼きついた原爆の痕跡は、今も仙二を苦しめ続ける。多くの命と夢を奪い、人生を狂わせた「あの日」。

仙二は窓の外に向けていた視線を戻して、こうつぶやいた。

「8月9日を忘れないでほしい。二度と繰り返してはいけない」=文中敬称略=

=おわり=