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流転 外国人被爆者手帳「1号」 3 402号通達
背景に韓国人切り捨て

2012/08/02 掲載

402号通達
背景に韓国人切り捨て

日本政府の外国人被爆者援護で、一つの節目になったのが1965年の日韓基本条約。過去の植民地被害を法的に清算し、付属の協定で両国間の財産・請求権問題の「解決」を確認した。日本側は、被爆者援護の問題も解決の範囲に含まれると解釈した。

広島市は既に、台湾出身の荘司富子(86)らに被爆者健康手帳を交付していたが、この条約以降、日本政府は在韓被爆者への手帳交付を認めない方針を鮮明にした。

「在韓被爆者の存在が政治的な力として明らかになり、日本政府は日韓条約を、法の適用を拒む口実にした」。「韓国の原爆被害者を救援する市民の会」会長の市場淳子は、条約の意味をこう解説する。

この状況を変えたのが、韓国人孫振斗(ソンジンドウ)の密入国と手帳申請だった。広島で被爆し治療目的で密入国し逮捕された孫は、手帳申請を却下され福岡地裁に提訴。74年勝訴した。その直後の同年7月、東京都は、治療目的で来日した辛泳洙(シンヨンス)の申請を受け手帳を交付。日韓条約以降、在韓被爆者で最初の取得者となった。

その陰で、旧厚生省は同月、「手帳や各種手当の効力は国内に限定」とする402号通達を出した。在外被爆者への手帳交付そのものはその後も続行されたが、さまざまな条件が付けられた。在外への手帳交付について条件がほぼ撤廃されるのは、78年に最高裁で孫の勝訴が確定されるまで待たなければならなかった。

それでも日本政府は402号通達を盾に、手当の支給など効果のある施策は拒絶。在外被爆者援護は2003年に通達が廃止されるまで、その実体を失う。

各国の被爆者たちが援護の実行を求め、日本政府との交渉を本格化させたのは、ようやく1990年代。市場やブラジル被爆者平和協会会長の森田隆(88)は、在米被爆者団体の幹部(故人)が語っていた言葉を、記憶している。

「官僚が、在米には適用したいが(数が多い)韓国にも適用すると大変なことになる、と話していた」

元広島市長、平岡敬(84)は中国新聞記者だった65年、韓国人被爆者の苦しい実態を、現地取材で先駆けて報じた。平岡は「朝鮮半島出身の被爆者たちは強制連行・労働の被害者も多い。日本政府は、ことが戦争責任の問題に及ぶのを恐れたのではないか。権力中枢にあったアジア蔑視の思想が、韓国人被爆者を切り捨てた」と見る。=文中敬称略