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流転 外国人被爆者手帳「1号」 2 来日
"後遺症"の治療求め

2012/08/01 掲載

来日
"後遺症"の治療求め

広島で原爆に遭った荘來富(そうらいふ)(荘司富子)が体調に異変を感じたのは、1947年2月、台湾に戻ったあとだった。

「左耳が聞こえなくなっていた。下痢や歯茎からの出血、貧血、目まいが続いた。栄養のあるものを食べても痩せた」。50年、台湾の警察官だった高春發(こうしゅんぱつ)と結婚。4人の娘をもうけたが、ずっと体調はすぐれず、精神的にも不安定だった。

「医者は『分からない』としか言わなかった」。原爆の後遺症かもしれないという思いが、頭から離れず、姉雅子がいる広島で治療が受けられないかと思い立った。荘司雅子は児童教育学の専門家として広島大教授になっていた。

神戸行きの船に乗ったのは被爆から18年後。37歳の夏だった。この63年当時、台湾からの来日はまだ容易ではなかった。「日本大使館から『病院の入院許可書や日本の引受人証明が必要』などと言われ、なかなか出国できなかった」

63年9月26日付の中国新聞夕刊には、「原爆症治療に来日 広島で被爆の台湾婦人」の見出しで富子の神戸到着が報じられている。なぜメディアが富子の来日を知っていたのかは分からない。「神戸港に着くと、新聞記者がいて、いろいろ聞かれた。台湾にいた夫も、短波のニュースで聞いたと言っていた」

被爆者健康手帳の制度を雅子から聞いていたので、富子もさっそく申請した。「原爆に遭ったことを証明してくれる人が2人必要と言われた。被爆から数日後に身を寄せた姉の教え子の両親と、そこの町内会長さんが18年もたっていたのに私を覚えていてくれた」

手帳は10月10日付で交付された。

広島市援護課は、これが外国人の手帳第1号であるとするが、発行の経緯ははっきりしない。「当時の資料がなく正確なことは分からないが、被爆の事実があり、その後も日本に滞在したから発行したのだろう」と推測する。

広島市は、翌64年に日本にいる家族に面会するため来日した韓国人にも、申請を受けて手帳を交付している。基準はあいまいだが広島市が外国人にも手帳を発行していたのは確かだ。

富子は「健康な体を失い、いろんな犠牲を払ってようやく日本に来て、手帳をもらった。でも、あとから多くの外国人が助かることになるとは思っていなかった」と語る。=文中敬称略