この場所で 刻まれた原爆の記憶 1

父を焼いた場所を前にして当時を振り返る山脇さん。後方が現在の竹岩橋=長崎市茂里町

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この場所で 刻まれた原爆の記憶 1 父を火葬した竹岩橋周辺 山脇佳朗さん(78)=長崎市晴海台町=
「置き去り」悔恨の念 黒く膨れて悲惨な姿

2012/07/24 掲載

この場所で 刻まれた原爆の記憶 1

父を焼いた場所を前にして当時を振り返る山脇さん。後方が現在の竹岩橋=長崎市茂里町

父を火葬した竹岩橋周辺 山脇佳朗さん(78)=長崎市晴海台町=
「置き去り」悔恨の念 黒く膨れて悲惨な姿

長崎市の浦上川に架かる竹岩橋。付近はビルや陸橋が立ち並び、信号機の明滅に合わせて車や人が行き交っている。ここに立つたびに、あの日の異臭とともに、強い悔恨の思いがよぎる。「何で父を置き去りにしたんだろう」と-。

1945年8月、11歳だった。稲佐町1丁目に父、兄弟と4人暮らし。原爆投下時は弟と自宅にいて助かり、兄も学徒動員先から帰宅。三菱長崎製作所鋳物工場(当時の岩川町)の工場長だった父を自宅近くの防空壕(ごう)で待った。だが翌日になっても帰ってこない。

3人で浦上川沿いを歩いて工場へ向かった。街全体に漂う腐乱臭。梁川橋から、内臓があらわになった若い女性の死体が川面に見えた。工場前の竹岩橋は両端が崩れ落ち、辺りには死体が何体も転がっていた。

工場は爆心地から約500メートル。高さ2メートル以上あったはずの外壁は崩れ、灰色の工場壁面は赤茶に焼け焦げていた。鉄骨は針金細工のようにぐにゃぐにゃに曲がり、木材やガラス破片などのがれきが散乱。工場内を捜し、黒く膨れた死体を見つけた。父だった。火葬を決め、工場の門の前の竹岩橋近くに運んだ。

焼け残りの木材を拾ってきて格子状に組んだ。その上に父を寝かせ、木切れをかぶせ、着火。立ち上がる炎からは足首が突き出ていた。「父が燃えている」。そう思うと耐えきれなかった。骨は翌日拾うことにして帰宅した。

11日、火葬場所の燃えかすを3人でかき分けた。完全には焼けていなかった。骨は少しだけ拾ったが、父の姿はあまりにも悲惨で、そのまま3人で逃げるように立ち去った。以来、そこへ行くことはなかった。

長崎原爆の投下から67年。被爆の痕跡は大半が消えた。それでも空前の殺りくと破壊の事実は、長崎そして県内の各地に、人々の記憶と共に染み付いている。そんな”場所”を訪ねた。