取り残された「被爆者」 体験者訴訟判決を前に 2

被爆体験者支援事業の改変に伴う問題点などを語る浜田さん=長崎市かき道1丁目

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取り残された「被爆者」 体験者訴訟判決を前に 2 提訴への道
国に翻弄 裏切られ 制度改変で給付対象縮小

2012/03/12 掲載

取り残された「被爆者」 体験者訴訟判決を前に 2

被爆体験者支援事業の改変に伴う問題点などを語る浜田さん=長崎市かき道1丁目

提訴への道
国に翻弄 裏切られ 制度改変で給付対象縮小

「同じ深堀で原爆に遭うたとに認められんっておかしかよ」。2003年2月、宮上弌子(かずこ)(73)ら西彼深堀村(現長崎市)出身で西彼三和町(同)に暮らす主婦らが声を上げた。

02年に始まった国の被爆体験者支援事業は、年1回の無料健診が受けられる健康診断受診者証を全国約1万2千人に交付。一方で被爆体験による心的外傷後ストレス障害(PTSD)とそれに伴う病気に認められる医療給付は「居住要件」を設け、対象を爆心地から12キロ圏内に住む人に限った。そのため原爆投下時に同圏内の深堀村などにいて受診者証を受けた人のうち、三和町など同圏外に暮らす2千人強が、医療費が補助される医療受給者証の交付対象から外された。

宮上は6歳のとき爆心地から12キロの深堀村で原爆に遭った。1964年に結婚し、三和町で暮らした。「12キロの外側に移住しただけで医療費補助が認められないのは納得いかない。行動を起こそう」

宮上らは03年3月、被爆体験者三和連絡協議会を立ち上げ、居住要件撤廃を求める署名活動などを開始。その活動は04年の県連絡協議会、05年の全国協議会設立に発展。同年、居住要件は「県内」に拡大された。

だが、一方で国は制度の後退につながる改変に踏み切る。医療給付の対象疾病を、「がん、外傷、感染症等以外」という当初の緩やかな運用から、約80種に絞った。さらに「被爆体験の記憶がない者は対象外」とし、約3千人が給付対象から外された。

「国に裏切られた」。同市かき道1丁目の浜田和慧(かずえ)(76)は9歳のとき、爆心地から8・3キロ、西彼矢上村(現長崎市)で原爆に遭った。90年代の被爆地域是正運動に参加し「死の灰が降った畑の野菜を食べ、不安な気持ちでいっぱい」と訴えた。02年にやっと開けた援護の道。それが3年で見直され、落胆した。

浜田は95年ごろ、急に視力が落ち、眼科に通い出したが医療受給者証は05年、「精神」の言葉が加えられた新たな手帳に変わり、眼科の治療費給付は打ち切られた。その後、白内障になった。

裏切られた思いは宮上らも同じだった。失望そして活動に対する家族からの反対もあり、全国協議会を離れる会員が続出。会の存続さえ危ぶまれる事態に陥った。「裁判に訴えるしかない」。国に翻弄(ほんろう)され続けた者たちは07年11月、長崎地裁に訴えを起こした。=文中敬称略=