海の果て 開戦69年 元兵士の記憶 下

太平洋戦争を振り返る長浦さん(左)と話を聞くミヨさん=長崎市稲佐町

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海の果て 開戦69年 元兵士の記憶 下 生き延びて 「早くやめておれば」

2010/12/10 掲載

海の果て 開戦69年 元兵士の記憶 下

太平洋戦争を振り返る長浦さん(左)と話を聞くミヨさん=長崎市稲佐町

生き延びて 「早くやめておれば」

サイゴンで第140号輸送艦が撃沈された後、長浦時雄(92)は、インドシナの仏軍を武装解除する「明号作戦」に参加。その後、陸上の任務を続けた。1945年8月、到着したバンコクの駅で現地労働者が走りながら叫んでいた。「日本、負けた」

9月1日、上等機関兵曹となった。翌日、日本は東京湾内の米戦艦ミズーリで連合国側への「降伏文書」に調印、戦争は終結した。

長浦は12日、バンコクの三井造船所で武装解除された。46年3月には体調を崩して入院。その後、頭の働きが少しおかしいとされる兵士20人を内地に連れ帰るよう依頼され、6月に復員船に乗った。同月末、浦賀港で上陸すると20人の姿は消えた。「早く復員したくて頭が変になったふりをしていたのかもしれん」

鉄道で、被爆の傷痕が残る長崎の地に戻った。稲佐町の実家は疎開したまま。近くの親類宅で縁側に腰掛けた。昔、かわいがってくれた叔母が奥から出てきた。手を握り合い、ようやく安堵(あんど)してきた。長い間一緒に泣いた。生き延び、古里への帰還を実感した瞬間だった。

鉄工所で働き、47年に結婚。4人の子をもうけた。今は孫5人、ひ孫もいる。自治会長を今春まで15年間務めた。交通指導員は84年から続けている。「立哨は雨の日も風の日も休まない。あと8年、100歳までやりたい」と笑顔を見せる。妻ミヨ(87)も「頑張ってきなさった」と目を細める。

「あの戦争をどう振り返りますか」。質問に長浦は考え込んだ。「戦争を起こすことは国民全体が苦労を重ねること。戦争だけは避けるべきだ。だが『いざ鎌倉』というときは…」。口を閉ざした。しばらくして「けんかの仕方」について話し始めた。

「けんかは、負けたときを考えておかねば。どうもこうもならなくなる前に、身の振り方は決めねばならん。こんなばかな戦争があるか。もっと早くやめておれば原爆もなかった」

開戦から半年で劣勢に転じ、それでも戦争を引き延ばして国内外で膨大な犠牲を出した。「とにかく二度と戦争はしてくれるなと言いたい」と唇を固く結んだ。元日本兵の精いっぱいの言葉だった。

「日本男児に生まれたことは誇り。だが、多くの戦友が散り、自分は無傷で帰ってきた」。苦悩を抱えて生きてきた。11月1日、長崎市公会堂であった戦没者追悼式では、軍恩連盟長崎市連合支部長として追悼の辞をこう述べた。

「再び故郷の姿を見ることなく戦没した亡き戦友のご無念を思うとき、痛恨の念に堪えない」

(文中敬称略)