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ハルモニからの伝言 長崎の在日コリアン 4 遠い祖国
早く自由な往来を

2010/08/25 掲載

遠い祖国
早く自由な往来を

1950年代半ば、佐世保市白岳町の朝鮮人集落で金今礼(キムクムレ)(84)の家族は貧困にあえいでいた。密造焼酎の摘発に加え、飼っていた豚が病気で全滅。生活保護を受けたり、行商をしたりしながらその日その日をしのいでいた。

苦しい日々が続いていた59年、ある知らせが舞い込んだ。北朝鮮への帰還事業が始まるという。朝鮮戦争は53年に休戦していた。今礼の夫、〓重鉉(ユジュンヒョン)は抱えた借金の返済を終えるまで帰れず、重鉉の母親と定時制高校を卒業した弟が先に帰還することになった。

北朝鮮行きの船が出る新潟へと向かう帰還者を見送ろうと、佐世保駅まで集落総出で出掛けた。駅前は北朝鮮の国旗がはためき、祖国に帰る喜びに沸いた。「祖国で待っているから」。夫の母親の言葉に今礼らは笑顔で返した。

だが帰還事業は84年に終了。その後も帰国の機会はあったが、今礼らは借金の返済や子育てなどに追われるうち、時機を逸した。

2000年11月、今礼は古里の韓国中部・忠清北道にいた。57年ぶりの“里帰り”。今礼は在日本朝鮮人総連合会(朝鮮総連)傘下の在日コリアンのため韓国に渡ることが難しかったが、同年の南北共同宣言を受けた朝鮮総連の故郷訪問団で里帰りが実現した。日本に渡ったとき16歳だった今礼は70歳を過ぎていた。

当時の自宅付近はダムの底に沈んでいたが、山並みなど懐かしい風景は残っていた。「自分の国やけん。一つ一つをかみしめるように見た」。両親の墓の前に立つと、朝鮮戦争で行方知れずとなったおいのこと、母親の死に目に会えなかったこと-さまざまな思いが駆け巡った。母親は79年に89歳で亡くなっていた。「お母さん、生きているうちに、会うことができずにごめんね」。涙があふれて止まらなかった。

夫の母親が眠る北朝鮮も同国籍の貨客船、万景峰(マンギョンボン)号で2度訪れた。だが、北朝鮮が核実験実施を発表したことに対し、日本政府が06年に同国籍船舶の日本入港を全面禁止してからは祖国の土を一度も踏んでいない。

日韓併合から100年目の夏。住宅街が広がる白岳町に朝鮮人集落の面影はない。近くに住む同胞の友人も少なくなった。夫は89年に72歳で亡くなった。「統一した祖国に墓を建ててくれ」というのが遺言だという。遺骨は近くの寺の納骨堂に預けている。

日本と北朝鮮の国交正常化や南北統一は戦後65年の今も実現していない。そうした状況に今礼は心を痛め、声高にこう訴える。

「親兄弟が3カ国に分かれて、敵みたいになっている状況を一日も早くなくしてほしい。自由に行き来できる日が来ること。いつもそれだけを願っている」(敬称略)

【編注】〓はマダレに申の縦棒が人