終戦65年
 戦争遺児の思い 上

セレベス島の戦友会に託された掛け軸を見詰める山下さん=長崎市内

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終戦65年 戦争遺児の思い 上 亡き父は帰らず
セレベス島で散骨を

2010/08/13 掲載

終戦65年
 戦争遺児の思い 上

セレベス島の戦友会に託された掛け軸を見詰める山下さん=長崎市内

亡き父は帰らず
セレベス島で散骨を

太平洋戦争は広大な範囲に及び、子を持つ多くの父親たちが戦地に駆り出された。1945年8月15日、昭和天皇は玉音放送で日本の敗戦を公表。あれから65年。戦争で父を失った子どもたちはどのように生き、何を思うのか。「戦争遺児」を訪ね、太平洋戦争の断面を探った。

厚生労働省の資料によると、沖縄と硫黄島を含む在外戦没者は約240万人。地域別ではフィリピン51万8千人、中国本土46万5700人、中部太平洋24万7千人の順で多く、ミャンマーや東部ニューギニアなどでも10万人を超える。7月末現在で遺骨が送還されたのは125万9千柱。114万1千柱が残存する。
長崎市連合遺族会長の山下裕子さん(68)=同市小江原4丁目=の父は海軍中尉だった。44年、特別警備隊長として佐世保からインドネシアのセレベス島へ。終戦で部下は復員したが、父ら幹部は戦犯としてオランダ軍が拘束。終戦から2年後の47年10月に処刑された。37歳だった。

終戦前、日本では母、3歳の山下さん、1歳の妹が佐世保で暮らしていた。長崎原爆後、3人は母の実家がある長崎へ向かい、入市被爆。国家補償もなく、生活は困窮した。母は父の安否を気遣いながらリヤカーを引いて行商したという。

セレベス島では64年12月、国によって遺骨が収集された。当時の国鉄長崎駅であった遺骨の伝達式で、山下さんらは小さな骨つぼを受け取った。だが、中には「石ころと名前を書いた木札しか入っていなかった」。雨期で水が多く、実際は掘れなかったらしい。しかし、形式的には遺骨は返還された。納得できるはずがなかった。「父の骨はインドネシアにある」

山下さんはこれまで十数回、セレベス島に渡った。父の遺骨は見つかっていないが、父の戦友、遺族らと弾痕が残る処刑場のセメント壁保存、慰霊碑建立などを進めた。現地住民との交流、同島からの留学生の世話もしている。父が望んでいる気がするからだ。

「(夫と)一緒の所に葬って」と話していた母は昨年8月、92歳で死去。戦前、戦中を知る人は次々に亡くなっている。同じ年、セレベス島の戦友会も高齢化のため解散した。戦友会の慰霊祭で掲げていた掛け軸の処分は山下さんに託された。

今月下旬、セレベス島に再び渡り、み霊を供養するため掛け軸を燃やし、母の希望に沿って海に散骨する。両親は65年以上の時を経て、あのころの若い姿で再び出会うだろう。

「戦争は私たち家族の人生を変えた。戦争は嫌。戦争遺児を二度と生み出してはいけない」。父が命を落とした島で、山下さんはそう念じるつもりだ。