浦上に生きて
 胸に刻む歴史 1

祈り

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浦上に生きて 胸に刻む歴史 1 原爆投下
8500人の信徒が犠牲に

2010/07/31 掲載

浦上に生きて
 胸に刻む歴史 1

祈り

原爆投下
8500人の信徒が犠牲に

1945年8月9日、長崎に原爆が投下されてからもうすぐ65年。爆心地に近いカトリック浦上小教区では当時所属していた信徒約1万2千人のうち約8500人が亡くなったとされ、信仰の拠点である浦上天主堂も倒壊した。キリシタン弾圧と原爆という苦難を経験した先人に思いをはせ、平和な世界の実現を願う信徒らの姿を取材した。

長崎市本尾町の浦上天主堂(小島栄主任神父)。南側にある被爆マリア小聖堂の祭壇には、原爆で倒壊した旧天主堂のがれきの中から見つかった被爆マリア像が置かれ、壁の銅板に原爆で亡くなった信徒のうち3600人余りの名前が刻まれている。深堀繁美さん(79)=長崎市本尾町=は毎朝、小聖堂を訪れ、原爆で亡くなった人たちのために祈りをささげている。

天主堂のそばに実家があった深堀さんは原爆で姉2人と弟、妹を亡くした。被爆当時は14歳で、神父を志す神学生。親元を離れ、大浦の神学校で生活していた。原爆投下時、三菱長崎造船所の飽の浦工場に動員され、魚雷発射管を製造していた。強い光を感じ、ドーンという大きな音が聞こえ、天井が落ちてきた。近くに爆弾が落ちたと思うほどの衝撃。防空壕(ごう)を兼ねたトンネルに逃げ込むとき、原子雲を見たのを覚えているという。

夕方になって神学校に帰ると、「浦上がやられた」と聞いたが「実家は浦上天主堂の影になっているから大丈夫だろう」とさほど心配しなかった。翌日昼すぎに自宅に向かったが、途中の道で見た光景はせい惨だった。川には真っ黒焦げの人が重なるように倒れていた。「水を、水を」という声は聞こえるが、人間には見えなかった。「あんな無残な姿は言葉で表現できない」

道なき道を歩いてたどり着いた浦上天主堂は燃え、備蓄していた缶詰が「ぱん、ぱん」と破裂音を上げていた。激しい音と煙に圧倒され、近づけなかった。異常な精神状態だったのか、東洋一と呼ばれた天主堂の変わり果てた姿を見ても悲しいという気持ちはわかなかったという。

自宅は崩れ落ちていた。母親は既に亡く、家族は父ときょうだい6人。姉2人は自宅で即死、自宅近くにいたとみられる弟と妹も避難先の矢上で12日に死亡した。住吉のトンネル工場にいて助かった父に再会できたのに涙も出なかった。家族で生き残ったのは出征していた兄を含めて3人だけだった。

被爆から65年たっても核兵器はなくならず、世界のどこかで戦争が起きている。「人間は罪を犯す。だから戦争がなくならない」と嘆く深堀さん。「すべての死没者のために祈るのが生き残った者の使命」ときょうも祈りをささげ、平和を願う。