被爆者を乗せて
 救援列車の記憶
 =続編= 5

被爆当時から気に掛かっているという出来事を語る安日涼子さん=長崎市内

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被爆者を乗せて 救援列車の記憶 =続編= 5 安日涼子さん(長崎市)
遺族、同級生を捜し求め
二つの出来事心から離れず

2009/09/30 掲載

被爆者を乗せて
 救援列車の記憶
 =続編= 5

被爆当時から気に掛かっているという出来事を語る安日涼子さん=長崎市内

安日涼子さん(長崎市)
遺族、同級生を捜し求め
二つの出来事心から離れず

長崎市岩屋町の安日涼子(79)は1945年8月9日、三菱兵器製作所大橋工場で学徒動員中に被爆。救援列車で運ばれた東彼川棚町での二つの出来事が、今も気に掛かっている。

14歳、県立高等女学校の3年生だった。倉庫の中で原爆に遭い、数時間後、倒壊した建物の下から外にはい出した。焦土をさまよった末、夜になって2人の同級生と再会。3人で道ノ尾駅に行き救援列車に乗り込んだ。安日は体中に無数のガラス片が刺さり、やけども負っていた。同級生2人はガラス片の傷で顔が膨れ、誰か分からないほどの大けがだった。

翌10日昼ごろ川棚駅で降りた3人は、収容所になっていた川棚海軍工廠(こうしょう)工員養成所に運ばれた。体育館のような広い屋内で手当てを受けた。

数メートル離れた窓際に1人の少年が寝かされていた。話したことはなかったが、安日の妹と少年の妹が同級生で顔を知っていた。気になったが声は掛けなかった。11日朝、少年のそばで看護婦が「あら死んでる」と言うのが聞こえた。夜に亡くなったようだった。

13日になり、収容所内に同級生と3人でいた時、県立高女の別の同級生が1人近寄ってきた。だが詳しいことを覚えておらず、今も名前は分からない。

安日は諫早市の叔父と連絡が取れ、13日川棚を離れた。長崎市浜口町の自宅で原爆に遭った家族6人が全員亡くなったことを、その後に知らされた。

戦後、亡くなった少年の遺族を捜してきた。一緒になった名前の分からない同級生が誰かも調べてきたが、どちらも進展はなかった。そんな中、川棚を取り上げた「被爆者を乗せて-」本編第4回(8月14日付)を見た。「収容者の名簿があるかもしれない」と長崎新聞社に連絡した。

長崎新聞が名簿の有無を調べた結果、長崎市が「川棚海軍病院収容者名簿」を所蔵していることが分かった。安日は少年の名を「百枝(ももえだ)」と記憶していた。市が調べた結果、名簿に「百枝昭」という名があった。ただ住所の詳しい表記はなく、遺族の連絡先は判明しなかった。

名前の分からない同級生についても、名簿が非公開で手掛かりは見つけられなかった。市は非公開の理由を「被爆者のプライバシーに配慮している」とした。

「遺族に死に際の様子を知らせてあげたい。同級生ともあの日のことを話したい。私たちはもう何年も生きていないのに…」。結果に安日は肩を落とした。(敬称略)