被爆者を乗せて
 救援列車の記憶
 =続編= 3

負傷した被爆者が収容された長田国民学校跡(中央の空き地)=諫早市

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被爆者を乗せて 救援列車の記憶 =続編= 3 上村紀元さん(諫早市)
詩人の長男の足取り…
気になった死亡日との“ずれ”

2009/09/27 掲載

被爆者を乗せて
 救援列車の記憶
 =続編= 3

負傷した被爆者が収容された長田国民学校跡(中央の空き地)=諫早市

上村紀元さん(諫早市)
詩人の長男の足取り…
気になった死亡日との“ずれ”

「何か手掛かりが得られるかもしれない」

諫早市原口町の伊東静雄研究会代表、上村紀元(69)は、「知的障がい児」教育の草分けとして知られる北松佐々町の近藤益雄(1964年死去)の長男で45年に17歳で原爆死した耿(あきら)に関する情報を探していたとき、連載を目にした。

益雄は上村が尊敬する詩人で、父肇(2006年死去)が刊行した詩誌「河」の同人。益雄は自由律俳句の仲間だった松尾あつゆきの原爆句を世に出した。上村は益雄の生涯を紹介した「写真記録子どもに生きる」(6月発刊)にある、耿の死を悼み作った歌や詩に触れ、耿の足取りを詰めて調べるつもりでいた。

本の「慟哭(どうこく)」の項で胸打たれたのが「みほとけとなれる吾子の前に来ていくさの服を今は脱ぐなり」「逝ける子が署名したるこの書物息ひそめつつ手にとりており」。召集され熊本県にいた益雄が復員後、詠んだという。

長崎師範学校1年生だった耿の最期について、本はこう記している。

校舎近くの長崎純心高等女学校裏の土手で防空壕(ごう)掘り中に被爆。道ノ尾駅から救援列車で諫早駅に運ばれた。諫早海軍病院は負傷者であふれ、二つ先の肥前長田駅に護送、近くの長田国民学校に収容されたが8月10日夜から11日未明までに絶命-。

上村は、残る記録との“ずれ”が気になっていた。

長田国民学校に関する長崎原爆戦災誌の記載は「約200人(一説に300人)の負傷者を収容したのは11日…(救援)列車は午後2時ごろ長田駅に到着…収容所は17日に閉鎖…収容中に82人が死亡、列車輸送中の4人を合わせると86人となる…」。

諫早市原爆被爆者救護活動の記録にも警察関係者の証言が「長田は11日までは何事もなかった。11日に長田駐在所にいたら、駅から臨時列車で負傷者が着いたというので、迎えに走った…」と書かれている。

住民総出で被爆者の世話に当たったとされる長田地区。こんな証言がある。毛利文子(84)は父親の指示で3日間、国民学校で救護活動。教室に横たわる負傷者で足の踏み場もない中、体に刺さったガラス片を抜いたり、バケツからひしゃくで水をくみ与えた。当時の日記には10日から出たと書いてある。

思い出したくない記憶の封印を取材に対し解いたという土取ハツ(85)も「10日から負傷者が運ばれてきたと思う」。11日は死亡者を埋葬するため丘の上で墓穴掘りをしたと話した。

原爆に関する二つの記録の通りだと、11日に救援列車が着いてから教護活動が本格化した。だが、耿はその前に長田国民学校で死んでいた。(敬称略)