被爆者を乗せて
 救援列車の記憶 5

長崎市から負傷した被爆者が救援列車で運ばれてきた早岐駅=佐世保市早岐1丁目

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被爆者を乗せて 救援列車の記憶 5 早岐その2
「恩人」見つかり電話
救護活動知る人も減少

2009/08/15 掲載

被爆者を乗せて
 救援列車の記憶 5

長崎市から負傷した被爆者が救援列車で運ばれてきた早岐駅=佐世保市早岐1丁目

早岐その2
「恩人」見つかり電話
救護活動知る人も減少

「早岐国民学校ではお世話になりました」

佐世保市陣の内町の田崎浩(83)が長崎原爆で負傷した被爆者を早岐駅から早岐国民学校まで搬送したことが長崎新聞の「私の被爆ノート」に載った4月、田崎の元に電話がかかってきた。平戸市大久保町の岡山クマ(78)からだった。

原子野から汽車で運ばれた一人。面識のない田崎に電話をしたのはお礼を言うためだった。「どなたに言ったらいいか分からないから」。紙面で見つけた救護活動従事者に、感謝の気持ちを伝えてきたのは初めてではないという。

田助国民学校高等科を卒業後、三菱兵器長崎製作所大橋工場に勤労動員され魚雷部品の仕上げ作業中に被爆。「ピカッと光った後、どう逃げたか覚えがない」。体中にガラス片が刺さった状態で道端に倒れているのを「憲兵」に助けられ宿舎の寮へ。その日の夜遅く、寮の前の土手に止まった救援列車まで「朝鮮人」と称する男性に背負われて行った。

必死にタラップを上がった客車内は真っ暗。負傷者であふれ座る場所もない。途中、通路に誰かの小便が流れてきた。元気な人は途中の駅で降りたようだが、動けなかった。夜が明けるころ終点の早岐に着いた。担架に乗せられ学校へ。

教室内はいっぱいで、入り口の板張りに敷いたござの上に寝かされ手当てを受けた。婦人たちがうちわであおいでくれた。同じ年ごろの男の子と同じ部屋になった。腹のえぐれた個所にウジがわき、「お父さん、お父さん」と声を振り絞っていた。捜し当てた父親が来たが、その後の生死は分からないという。

死亡者名が教室の黒板に次々書き出されたが、自身がそうなるとは考えなかった。長崎原爆戦災誌などによると、早岐国民学校には100人以上が収容され数十人が死んだとされる。

当時早岐警防団第5分団に所属していた田崎は、汽車で早岐駅に来る原爆被災者の救護運搬に当たるよう分団長の命令を受け、10日正午すぎから従事。駅から国民学校まで約600メートルの距離を担架や戸板で4回運んだ。11日も活動。そして被災者に付いていた放射性物質で被爆-。

長崎市外で救護などに当たった場合も被爆者健康手帳を取得できると知らなかった田崎が交付申請したのは1984年。だが書類の不備を指摘され却下された。警防団長の日記を証拠として添付し再提出。92年7月7日に交付を受けた。

一緒に手帳を取得できた仲間7人と「七夕会」を結成し年1回懇親会を開いてきたが、亡くなったり体調不良で参加者は減少。今年集まったのは約半数だった。「体験を伝えたい」。田崎は、手書きした当時の学校配置図を大切に保管している。(敬称略)