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被爆者を乗せて 救援列車の記憶 3 松 原
80人を国民学校に収容
女性の車掌がてきぱき指示

2009/08/13 掲載

松 原
80人を国民学校に収容
女性の車掌がてきぱき指示

長崎市に原爆が落とされた直後のきのこ雲を大村市から撮影した写真が2005年、長崎原爆資料館(長崎市)に寄贈された。その後の調査で、写真は爆心地から大村湾を経て約25キロ離れた大村市北部・松原地区の鹿ノ島から撮られたことが分かった。

「これは時間がたってから撮られた写真。最初はもっと丸くて、ちょうどクラゲのようだった」

当時15歳の松原本町の七山登(79)は、大村湾を望む高台の実家で草履を作っていた。突然目の前が光り、ドンと音がした。海の向こうに巨大なきのこ雲が立ち上った。きのこ雲の下には、クラゲの「足」のように光線が走っていた。爆風で家の雨戸が揺れた。七山は草履を投げ捨て一目散に防空壕(ごう)に走った。

原爆投下から5日ほど後、松原地区の救援隊の一員として被爆地に入った。「山のてっぺんまで何もない焼け野原。工場の鉄骨があめのように曲がっていた」。道端のトタン板が動くのが目に入った。下をのぞくと髪も顔も体も焼け焦げ、傷口にうじのわいた被爆者が「水をくれ」とうめいた。「地獄のようだった」

帰宅後食事ができず、夜も眠れなかった。「思い出したくもない」その光景は、今でもはっきりと脳裏によみがえる。

松原本町の松永アイ子(78)と松原1丁目の永田ミツ(同)は学徒動員で一緒に松原駅で働いていた。駅舎内にいるとドンと音がし、ホームに出てきのこ雲を目撃した。

長崎原爆戦災誌によると、同駅に最初の救援列車が到着したのは9日午後9時ごろ。約80人の負傷者が近くの松原国民学校に収容されたという。2人もこれ以降、負傷者を降ろす作業に従事する。

女性の車掌が、暗い車内を懐中電灯で照らしながら負傷者の列を指し「ここからここまで松原で降ろすから連れて行って」とてきぱき指示した。「女性なのに勇敢」と頼もしく感じた。どの列車か定かでないが、松永は近くの女性が鼻も口も分からない黒焦げの状態で乗っていたのを記憶している。

松原駅に動員される以前、2人は約4キロ南へ下った竹松駅に勤務していた。竹松には当時、東洋一の規模の大軍需工場、第21海軍航空廠(しょう)があり、たびたび空襲に遭った。近くに爆弾が落ちたこともあった。「死ぬと何度も思った」(松永)「本当に怖かった」(永田)。

願い出て移った松原でも惨禍を目の当たりにした。「二度と戦争があっては困る」。2人はつくづくそう思う。(敬称略)