閃光に消えた町
 私たちは爆心にいた 2

原爆投下の翌日、避難した防空壕の前に立つ杉田(右)と深堀。被爆した防空壕は隣にあった。上に平和公園がある=長崎市、松山町と橋口町の町境

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閃光に消えた町 私たちは爆心にいた 2 無人の里
火炎の余熱、地面覆う

防空壕で奇跡的に生き残る

2009/08/02 掲載

閃光に消えた町
 私たちは爆心にいた 2

原爆投下の翌日、避難した防空壕の前に立つ杉田(右)と深堀。被爆した防空壕は隣にあった。上に平和公園がある=長崎市、松山町と橋口町の町境

無人の里
火炎の余熱、地面覆う

防空壕で奇跡的に生き残る

あの日、朝ご飯はすりつぶしたジャガイモだった。食糧難の中、祖母がよく作ってくれた。当時10歳だった杉田美子(74)は昨日のことのように覚えている。

朝からの空襲警報は解除されていた。「気を付けて遊ばんばよ」。長崎市山里町(当時)の自宅を出る杉田に祖母が声を掛けた。「うん」。親を亡くし、祖父母に育てられた杉田にとって、それが肉親との最後の会話になった。

「じゃんけんぽん」。近所の5、6人と家の近くで隠れんぼを始めた。どこに隠れようか-。その時、草履の鼻緒が切れた。このままでは鬼に見つかってしまう。草履を片手に目の前の防空壕(ごう)へ身を潜めた。そこには、警報解除後も残って雑談していた隣家の村上みつ(故人)ら年配の女性5人と幼児が1人。爆心地から300メートルも離れていない場所にあった。

「ドーン」。突然、音が鳴り、おしゃべりが聞こえなくなった-。その瞬間を杉田はそう記憶する。気付くと上着ともんぺがズタズタだった。村上は荒れ狂った爆風にたたきつけられて身動きできなかったが、命はあった。ほかの5人は即死だったとみられる。

どれぐらい時間がたっただろう。杉田は恐る恐る出入り口に近づき、外をうかがった。あるはずの自宅も、周りの建物も、みんな消えていた。丘の上の浦上天主堂が残骸(ざんがい)をさらし、ガラガラと崩れ落ちるのが見えた。

2人は翌日、村上の孫で、学徒動員先から一昼夜かけて山里町にたどり着いた吉永〓冶(故人)とその友人、深堀好敏(80)に救い出される。「お兄ちゃん、お兄ちゃん」。杉田が泣き声を上げて吉永に抱きついた。灼熱(しゃくねつ)の火炎が町をなめ尽くした後も、余熱が地面を覆っていた。数日前に山里町から疎開していた深堀は言う。「見るも無残な死体が転がり、見慣れた山里町はただの一軒の民家も残っていなかった。足が熱くて仕方なかった。ここに生き残っている人間がいるなんて、奇跡だと思った」

無人と化した山里町。孤児となった杉田は身寄りを求め、親せき宅を転々とする。安住の場所はなかった。「何で私も(あの世に)連れて行ってくれんかったと」。祖父母が眠る墓で何度泣いただろう。「原爆がうつる。あっち行け」。諫早の転校先では同級生からいじめられ、石を投げられた。その日、その日を生きていくため学校をやめ、まきなどを売ってお金を稼いだ。思えば、安らぎとはほど遠い戦後だった。

十銭硬貨を握り締めて行った駄菓子屋、折り紙を買った文具屋…。かつての山里の町並みが目に浮かぶ。追憶の中の祖父母は、いつも優しくほほ笑んでいる。杉田は戦後、被爆体験をほとんど語ることがなかった。「あんなことを、もう二度と繰り返してほしくないから。こんな思いは私たちだけで十分」。取材に応じてくれた理由を、静かに話した。(敬称略)

【編注】「吉永〓冶」の〓は糸ヘンに川