2009語り継ぐナガサキ
 核なき世界へ 3

苦労と悲しみを乗り越え、感謝と平和への思いを歌に込める谷(中央)=長崎市内

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2009語り継ぐナガサキ 核なき世界へ 3 谷 恵美子(たに・えみこ)
平和の願い込め歌う
苦労、悲しみを乗り越え

2009/07/29 掲載

2009語り継ぐナガサキ
 核なき世界へ 3

苦労と悲しみを乗り越え、感謝と平和への思いを歌に込める谷(中央)=長崎市内

谷 恵美子(たに・えみこ)
平和の願い込め歌う
苦労、悲しみを乗り越え

「原爆の老父を看護しつつ 休まず励んだ六年 輝く善行賞 谷恵美子さん」-。1952年3月20日付の「長崎日日新聞」(長崎新聞の前身)で、長崎市立小学校の卒業式を前に書かれた記事だ。

谷恵美子(70)=同市葉山1丁目=は現在、被爆者歌う会「ひまわり」のメンバーとして、8月9日の平和祈念式典会場で平和の願いを込めた歌を披露するため練習に取り組む。

あの日。谷は6歳。爆心地から約2・5キロ離れた丸尾町で被爆した。山手の平戸小屋町に引っ越すため、父と一緒に荷物を運んでいた時だった。気が付いたら家のがれきの下敷きになっていた。父が駆け寄り助けてくれた。父はその後、白血病で寝たきりになった。

小学校低学年の春。そんな父が桜が咲き誇る公園に連れて行ってくれた。大勢の花見客が弁当箱を広げている。谷の家には弁当など持って行く余裕はない。はしゃぐ谷をよそに、父はうつむいていた。「おまえを連れてきたのはむごかったな」と、谷の手を引いて山奥の滝を目指した。最後の力を振り絞り、まるで何かにせかされるように。日が暮れ、谷が何度も「帰ろう」とせがみ、逆に父の手を引っ張って帰宅した。

食べるのがやっとの生活。父の看病をしながら、休まず学校に通った。実の父ではないが「困った人がいたら自分から手を差し伸べなさい」が口癖で、手塩に掛けて育ててくれた。

父が花見の日に取った行動はもしかすると…。月日がたち、ようやくあの意味が分かった気がした。でも憎んだことなどない。中学卒業後、就職したが、看病に専念するため、数カ月で退職した。57年8月、結婚。それを見届けるように4カ月後、父は他界した。

2004年、谷が所属していた長崎原爆被災者協議会のメンバーが中心となり、長崎市在住のシャンソン歌手、寺井一通を講師に「ひまわり」が結成。原爆の体験を話すと涙が出て、うまく話せない。「でも歌だったら」。谷も加わった。学校やイベントで披露したり、平和の願いを込めた歌を収録したCDを学校に配っている。

平和祈念式典会場での合唱は、昨年に続き、2回目。「原爆に遭って良いことなんて一つもない」。原爆が親子を引き裂き、生活を苦しめた。だが谷は「自分だけが苦しい思いをしたのではない」と謙虚だ。みんなに生かされた命。「今ここにいるのは、父をはじめ、支えてくれた多くの人のおかげ」。苦労と悲しみを乗り越え、感謝と平和への思いを込めて歌う。(敬称略)