鍋に拾った母の骨 
 =築地重信さん 静止した記憶= 中

被爆直後の生活のヒトコマ 絵=築地重信

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鍋に拾った母の骨 =築地重信さん 静止した記憶= 中 被爆孤児として施設へ 祖母に「異教徒扱い」され

2008/08/06 掲載

鍋に拾った母の骨 
 =築地重信さん 静止した記憶= 中

被爆直後の生活のヒトコマ 絵=築地重信

被爆孤児として施設へ 祖母に「異教徒扱い」され

母さんを奪われてから 俺

戦災孤児に分類され
施設にはいる事になってネ

施設のおばさんを「お母さん」と
呼びなさいって…ウーン
言われたんだ。
ウーン…
(「母の風景-築地重信画集とつぶやき」から)

築地重信さん(73)は一九三五年七月、中国上海に生まれた。父は東亜同文書院の学生。軍の命令で奥地の抗日ゲリラ掃討へ出動、行方不明に。長引く日中戦争。大陸各地で住民や民兵の反乱が起こり、学生が鎮圧に狩り出された。戦死の通知は届いたが、どこで、どういう最期だったかは分からない。「大人になって本を読み、(歴史的)いきさつを知るに至った」という。

母方の祖父は、上海で海軍の仕事を請け負いサルベージ業を営んでいたが、戦況激化で帰郷を決めた。実母は上海で再婚。築地さんとは別れた。事情で姓は母方の「築地」を名乗った。祖父母、叔母との四人で長崎市本尾町の家に落ち着いたのは、原爆落下一年前の四四年九月だった。

戦争で父を奪われ、再婚した実母と別れ、「浦上の母」と慕った叔母、祖父を原爆で失った十歳の築地さん。川平に疎開していた祖母はたびたび浦上に帰ってはきたが、原子野にただ一人放り出された被爆孤児同然だった。

拾ったトタンを石垣に立てかけ、腹ばいに寝て夜露をしのぐ。警防団が配るおにぎりにも空腹は満たされない。焼け跡の防空壕(ごう)をあさり、埋まっていた缶詰や備蓄の米を掘り出した。松山にあった缶詰工場跡で、熱で固まったトマトサージンをくぎで必死にこじ開け、砂交じりになったイワシを口にしたこともある。

十一月、祖母の知人の大工がバラック小屋を建ててくれた。祖母もようやく疎開先から浦上に戻り、暮らしを少しずつ取り戻した。

だが、それも束の間。後妻だった祖母には上海に四人の連れ子とその家族がおり、戦後長崎に引き揚げて来た。バラック小屋に九人。五島出身の祖母を筆頭に、子どもはみな熱心なクリスチャンだったことも、築地さんの肩身を狭くした。「異教徒」として厄介者扱いが始まった。「小学校が終わったら、この家ば出ていってくれんね」。口減らしの無情な宣告だった。

途方に暮れたが、不思議と実母の顔は浮かんでこなかった。叔母の「浦上の母」の顔ばかりが懐かしかった。「母さん 浦上が母さんに見えるんだ。母さんが浦上に見えるんだ」「生涯 生きて行くこれからの事 どうしたら いいのか 尋ねていいかい」(同書から)

四七年、十二歳になった築地さんは祖母に手をひかれ、聖母の騎士修道院が小ケ倉水源地近くに開設した養護施設「聖母の騎士園」(現諫早市小長井町)の門をくぐった。

「祖母を恨む気持ちも強かったが、どこかでほっとする気持ちがあったのも確か」

ゼノ修道士らが全国から救済した戦災孤児の子どもたちなど百人近くが施設にいた。年上は「兄さん」、年下は「弟」。世話係の施設の女性は「姉さん」で温かく支えてくれ、心に明かりがともった。何より食べ物があった。「子どもながら、安住の地にたどり着いたと思った」