手帳
 =被爆63年・長崎= 1

親友(写真はイメージ)

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手帳 =被爆63年・長崎= 1 背負う枷 亡き友へ贖罪 取得せず

2008/07/29 掲載

手帳
 =被爆63年・長崎= 1

親友(写真はイメージ)

背負う枷 亡き友へ贖罪 取得せず

” 被爆者とは誰のことなのか-。その問いに多くの人は「原爆に遭った人」と答えるのではないだろうか。しかし、新聞やテレビに登場する被爆者とは、被爆者健康手帳を持っている人を指している。被爆者援護法に基づき被爆者であることを証明できる手帳。でも本当にその人たちだけで「被爆者」をくくっていいのだろうか? そんな疑問をいろいろなケースから考えてみた。

展示遺品の中にその制服を見つけた瞬間、背筋が凍り付いた。

焼け焦げ穴がぽこぽこと空いた母校・旧制瓊浦中の制服。粗末な繊維でできたそれはくすんだ緑色をして説明には共に戦時下を生きた友の名前が刻まれていた。

四十年前。一度見ておきたいと訪れた長崎国際文化会館(長崎原爆資料館の前身)。三岳寛之(79)=長崎市北陽町=はこの時、手帳を取る気持ちに封をする。

「あの日、工場動員をさぼって生きながらえた自分が『被爆者でございます』と恩恵を受けるわけにはいかない」。そう決めた。

一九四五年八月九日。三岳は前日で通学列車の定期券が切れ、長崎に行かなかった。戦時特例で三月に一年早められて卒業したものの、卒業式翌日からそれまで同様、茂里町の製鋼所に動員される日々。先輩からは「国家存亡の時に安穏と暮らし、兵士に志願しないのは非国民だ」とののしられたが、実家の東彼川棚町で代用教員を申し込み「このままずっと…」との思いも芽生えていた。

「さぼり」は先輩の言葉を借りれば、まさに「非国民」の“極み”だった。

夜になり川棚に列車でけが人が運ばれてきた。長崎のただならぬ事態を知る。西町に下宿先があり心配になった。数日後、ぱんぱんに膨れて焼けた遺体が転がる原子野に立った。「一日違いで命拾いした。幸運だった」と正直思った。

五七年に手帳の交付が始まると一度入市被爆の手続きをしようとした。在学証明書を取り、証人もいた。だがそれから先はもやもやした感情から踏み切れない。そんな時偶然再会したのが友の制服だったのだ。

三岳はそれから、公的には「被爆者でない自分」を生きてきた。友への贖罪(しょくざい)の念を抱きながら生きてきた。

選んだ道は人があまり通らない道なのかもしれない。被爆し手帳を取りたくても取れずに苦しんでいる人もいる現実がある。三岳自身「そんな人こそ救われないといけない」と思う。

でも自身は別の道を選んだ。法や規則に当てはめる前にある、人としての規範があることを示すように。

三岳は言う。「私には被爆者の自覚はあります。でも、人生に大きな望みを持っていたであろう友人の悔しさを思えば、これは背負い続けなければならない枷(かせ)なのです」

これからもそうあり続けるという三岳。法的には被爆者ではないが、果たして「被爆者じゃない」と言い切れる人はいるだろうか。(敬称略)”