消えた女学校
 =常清・被爆63年目の証言= 2

1945年10月に撮影された常清の修道院(右)と盲唖学校。焼け跡には住宅が建ち始めている(林重男氏撮影、長崎原爆資料館所蔵)

ピースサイト関連企画

消えた女学校 =常清・被爆63年目の証言= 2 投下 被害実態いまだ不明

2008/07/18 掲載

消えた女学校
 =常清・被爆63年目の証言= 2

1945年10月に撮影された常清の修道院(右)と盲唖学校。焼け跡には住宅が建ち始めている(林重男氏撮影、長崎原爆資料館所蔵)

投下 被害実態いまだ不明

松下凉(73)は、真っ白い閃光(せんこう)の後、白黄色の玉が巨大なきのこ雲となって空に上っていった不気味な光景を今も忘れない。

自宅がある長崎市西出津町は爆心地から十数キロも離れているが、爆風で大きな松が揺れるほどだった。きのこ雲の下には、二人の姉がいた。

常清高等実践女学校(爆心地から〇・六キロ)の生徒はその日も、三菱長崎造船所の軍需工場になっていた近くの県立盲唖学校などに動員。神田貞子校長や松下の長姉、サクら教職員は軍部に供出する松やに採集などに分かれて作業していた。サクと同じシスター(修道女)を志し、常清の修道院に寄宿していたもう一人の姉、トクは学校で洗濯をしていたという。原爆はその頭上近くでさく裂した。

南山手町の修道院から負傷者の救助に向かった相川君代(86)は一変した街に言葉を失う。死臭が漂い、川には男女の別さえ分からない無数の遺体が折り重なっていた。浦上天主堂は崩壊。そばの常清は、れんが造りの修道院だけが生命が消えた焼け野原で残骸(ざんがい)をさらしていた。

学校近くの防空壕(ごう)の入り口で頭部に致命傷を負った常清のシスターがへたり込んでいた。「大丈夫ですか。みんなは?」。中はけが人で足の踏み場もない。奥では別のシスターがうめいていた。

翌日から土を掘り、息絶えたシスターを埋葬した。目の前の現実に何を思い、どう動いたのかはっきりとは思い出せない。「普通の感覚ではなかったんでしょう」。相川は静かに言う。

トクは黒焦げで見つかった。わずか十三歳。サクは家にたどり着いたが、体中に紫色の斑点が現れ、髪が抜け始める。「お世話になりました」。高熱にうなされる中、最後の言葉を残し、息を引き取った。二十五歳だった。

常清の設立母体で、宝塚市に日本管区本部を置くショファイユの幼きイエズス修道会によると、当時の生徒数(一-四年生)は四百二十人とも四百五十人ともいわれているが、資料も焼失し原爆の被害実態はいまだ不明という。盲唖学校に動員され絶命した生徒が百六十一人とみられること、神田らシスター九人全員を含む教職員のほとんどが死亡したことなど断片的な情報が分かっているにすぎない。すべてのパズルが埋まることは、もうない。

「二人は家族、日本国民のために犠牲になったんだ」。松下の亡き父は生前、自分に言い聞かせるように話していた。一発の原爆で、十代半ばの少女たちが花開くことなく散っていった。あの戦争は何だったのか-。松下は写真の姉に今も問い掛けている。(敬称略)