硫黄島からの生還 長崎・最後の証言者 4

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硫黄島からの生還 長崎・最後の証言者 4 戦 闘 弾丸が右太ももを貫通

2007/08/15 掲載

硫黄島からの生還 長崎・最後の証言者 4

戦 闘 弾丸が右太ももを貫通

「閣下、これが」

副官が栗林忠道中将に一枚の紙を差し出す。

「読んでくれ」

「大本営からです。戦局ここに至りては友軍を硫黄島に派遣すること困難を極まれり。小笠原兵団は最後まで敢闘し、悠久の大義に行くべし」

(映画「硫黄島からの手紙」)

◇ ◇ ◇

「大本営はおれたちを見捨てるのか。玉砕しろということか」。米軍の激しい攻撃にさらされ、飲まず食わずで戦ってきた田川正一郎ら末端の兵士にも反発が広がった。

一九四五年二月十六日から三日間、米軍は昼夜構わず艦砲射撃と航空爆撃を島に浴びせた。日中、分隊長の田川は十五人の部下と地下陣地に潜み、夜は砲弾を取りに倉庫に走った。米軍の照明弾に照らされ、いつ撃たれてもおかしくない。砲弾は一発四十キロ。一晩に一人一発運ぶのがやっとだった。

硫黄島協会の「硫黄島戦闘概況」によると、田川の分隊が属した迫撃砲部隊は「全火力で米軍に集中砲火を浴びせて前進を阻止」したが、二十五日ごろには米軍の集中砲火で陣地が破壊され、砲弾も撃ち尽くした。

地図
二十八日夜、田川の分隊は陣地を放棄。小銃による歩兵戦闘に踏み切ったその直後、田川は二人の部下を失う。並ぶように死んでいる二人を見て「いずれ自分もこうなる」と冷静に思った。

三月上旬。海軍の砲台で若い兵士に小銃の撃ち方を教えていると、突然、砲台のすき間から黒煙が迫り、驚いてひっくり返った。米軍の火炎放射だった。その後、別の歩兵部隊と合流。田川の分隊が周囲の警戒につく予定だったが直前に変更され、代わりに出て行った分隊はほぼ全滅した。

その夜、田川の分隊は別の分隊と警戒に向かった。だれかが米軍が仕掛けたピアノ線を引っ掛けた。と同時に照明弾が上がり、田川らの姿は闇に浮かび上がった。間髪を入れず激しい銃撃。「突っ込みますか」。田川は上官に叫んだ。「退け」。いったん撤退し、再び現場に戻ると、日本兵が小さな穴に折り重なるように死んでいた。

十日。地面に掘った穴に潜んでいた田川は、右側に米兵らしき影を認めた。穴から出て左足をひざ折りに立て、右足はあぐらをかくように座る「ひざうち」の構えで小銃の狙いを定めた。ふいに、右足の太ももに丸太でたたかれたような激しい痛み。反対側にいた米兵に狙撃されたのだった。弾は貫通している。両手で右足の根元を押さえたが、血は止まらない。「もう駄目か」。あきらめかけたとき、後方にいた部下が駆け寄って田川を穴に引きずり下ろし、止血棒で処置してくれた。

その夜。田川は腹部を負傷した兵士と二人で野戦病院へ。病院は負傷兵であふれていた。一人だけを入れてもらい、田川はそこを離れた。部隊に戻っても足手まといになるだけだ。つえをついて休めるところを探し回り、工兵が築いた立派な壕(ごう)を見つけた。翌日、田川の部隊の生き残りも壕にたどりついた。(敬称略)