硫黄島からの生還 長崎・最後の証言者 1

62年前、日本軍と米軍が死闘を繰り広げた硫黄島。手前に見えるのは摺鉢山(東京都小笠原村提供)

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硫黄島からの生還 長崎・最後の証言者 1 運 命 自決阻んだ上官の言葉

2007/08/11 掲載

硫黄島からの生還 長崎・最後の証言者 1

62年前、日本軍と米軍が死闘を繰り広げた硫黄島。手前に見えるのは摺鉢山(東京都小笠原村提供)

運 命 自決阻んだ上官の言葉

昨秋から今春にかけ公開された二本の米映画「硫黄島からの手紙」と「父親たちの星条旗」により、硫黄島の戦いはにわかに脚光を浴びた。二万人を超える日本兵が戦死したこの島に、本県からも五百五十五人が出征し、十四人が死線をくぐり抜けたことはあまり知られていない。だが、戦後六十二年がたつうち生還者は次々と他界し、長崎市在住の深堀(旧姓・田川)正一郎(88)が本県最後の証言者となった。スクリーンの映像は、深堀の記憶を鮮明に呼び覚ましたという。

「黙れ。退却などひきょう者のすることだ」

米軍の激しい攻撃を浴び陥落した硫黄島南部の摺鉢(すりばち)山。守備隊トップの栗林忠道中将の退却命令を伝えようとする下級兵士の西郷を、上官が一喝した。

「天皇陛下万歳。諸君さらばだ」

手りゅう弾を胸元で爆発させ次々と死んでいく兵士たち。上官は拳銃で頭を撃ち抜き、ぼうぜんと見守る西郷の顔に血しぶきが飛び散る。

(映画「硫黄島からの手紙」)

◇ ◇ ◇

「お先に失礼します」

一九四五年三月十八日。当時二十五歳だった旧陸軍軍曹の田川正一郎は自決の意思を固め、上官の菊山に伝えた。この日、壕(ごう)の入り口付近で用を足していたところ、近くに迫撃砲が着弾。砲弾の破片が、既に銃弾で撃ち抜かれていた右太ももの肉をえぐり、歩けなくなった。

「衛生兵に見てもらえ」。菊山は言った。「まだ大丈夫です」と衛生兵。「いずれはみんな死ぬ。そのとき一緒に死のう」。菊山の言葉に田川は死を思いとどまった。

既に勝敗は決していた。二十六日早朝、守備隊は白だすき姿の栗林中将を先頭に、米軍の野営地に最後の奇襲を仕掛ける。田川がいた壕の兵士たちもそれに加わった。

歩けない田川は、奇襲に赴く菊山に再び自決の意思を伝えた。「上等兵を二人置いていく。米と水も少し置いていくから、今晩三人で食べてゆっくり寝てから、明日自決しろ」。菊山はそう言い残して壕を出た。その晩、最後の反撃に加わるはずの別の二人が壕に紛れ込んできて、五人でわずかな米を分け合った。この二人のうち一人はその後、姿を消した。

翌朝。「自決しよう」。田川は上等兵二人に言った。「昨晩は一睡もできませんでした。もう一晩眠らせてください」。一人の上等兵の最後の願いを拒むことはできなかった。

二度目の朝。クリスチャンの田川はキリスト教の十戒の一つ「汝、殺すなかれ」を思い起こしていた。「自殺もしてはいけない。しかし、日本ではお国のために死ななければならない。私をお許しください」。田川は神に請うた。

ただ問題があった。手りゅう弾は一発しかない。「これでは三人とも死ねないかもしれない」。田川は壕に紛れ込んできた兵士が前日、拳銃を試射する音を聞いていた。「拳銃を借りてきてくれ」。一人の上等兵が壕の入り口付近にいた兵士のもとに向かった。だが戻ってこない。もう一人も行かせた。やはり帰ってこない。

一人でいらいらしながら待っていると、上等兵二人と拳銃を持った兵士が慌てて戻ってきた。

「米軍に見つかった」

(敬称略)

◎ズーム/硫黄島の戦い
硫黄島は東京から南に約1250キロ離れた太平洋に浮かぶ火山島。1945年2月19日に米軍が上陸。米軍は当初5日間で占領予定だったが、日本軍は18キロにも及ぶ地下トンネルを築いて持久戦に持ち込み、戦闘は1カ月以上続いた。3月26日、日本軍はほぼ全滅。厚生労働省や防衛省によると、日本軍約2万1900人が戦死したが、米軍の死傷者も約2万9千人(うち約7千人死亡)に上った。米軍はこれにより日本本土のほぼ全域を空襲圏内に収めた。