「語り」の風景
 =被爆61年をすぎて= 4

被爆者の体験を聞き、平和学習を深めようと、被爆地長崎には多くの小、中学生が訪れる=長崎市内

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「語り」の風景 =被爆61年をすぎて= 4 共通の思い 方法は違うも「人生」

2006/08/31 掲載

「語り」の風景
 =被爆61年をすぎて= 4

被爆者の体験を聞き、平和学習を深めようと、被爆地長崎には多くの小、中学生が訪れる=長崎市内

共通の思い 方法は違うも「人生」

「政治は語りません」―。

長崎平和推進協会継承部会員の下平作江さん(71)はこう言い切る。「正直、体験だけで精いっぱいです」。一時間の講話に、原爆で家族を奪われた悲しみや病気に苦しむ半生をぶつける。

「原爆のことを語ると涙が止まらない。それでもいいなら話します」。そう決意し、口を開いたのが約三十年前。長崎市を修学旅行で訪れた大阪府の荒れた中学校だった。

後日、生徒たちから感想文が届いた。「ママのことを『ばばあ』と言いません」「たばこもシンナーもやめます」―。これが、下平さんが語る原点になった。「話を聞いて、生徒が自分の生活を変えようと努力した。心を込めて話せば伝わるのです」

今田斐男さん(76)は、松山町で爆死した父親のことを話す。自身は出征中で被爆者ではない。「県被爆教師の会」結成(一九七〇年)メンバーであり、八四年から二〇〇〇年まで継承部会長を務めた。

「いろいろ問題はありましたよ」。語り部による修学旅行生からの署名集め、被差別部落の差別発言―。「苦情があれば個別に注意してきた。(今回のように)政治的な問題を取り上げない人にまで、話をするなと規制したのが問題」。今田さんはこう指摘する。

「今度こそ(部会を)辞めようと思った」。元小学校教師の山川剛さん(69)は昨年来、協会依頼の講話から遠ざかった。協会が後援拒否した「全国平和教育シンポジウム」の事務局を務め、協会が言う「中立」に疑問を感じたからだ。

八歳で被爆した状況を語った後、過去の戦争やイラク戦争、協会が自粛を求めた劣化ウラン弾の被害にも触れる。「もちろん子どもの成長過程に応じて話す。過去を見つめ、今、起こっていることを見つめ、未来を生きる希望を探す」。山川さんの持論である。

長崎市の被爆者は四万八千四百八十三人(二〇〇五年度末)、平均年齢七三・二歳。十年前と比べ約一万一千人減少した。語る人、語らない人、語りたくても語れない人―。語る人の中でも被爆体験だけの人、現代の問題を絡める人―。何を語るか、それぞれ違う。

「語りは人生。八月九日に被爆したという事実のほかに、何を考え、どう生きてきたか、が被爆者の体験」。三人とも方法は違うが、思いは共通している。