戦争の記憶 13(完)

震洋を係船した桟橋(ポンド)があったことを伝えるコンクリートの一部。正面海岸に特攻殉国の碑がある=川棚町新谷郷

ピースサイト関連企画

戦争の記憶 13(完)

2005/12/28 掲載

戦争の記憶 13(完)

震洋を係船した桟橋(ポンド)があったことを伝えるコンクリートの一部。正面海岸に特攻殉国の碑がある=川棚町新谷郷

波静かな大村湾の入り江に面した東彼川棚町小串郷に、川棚臨時魚雷艇訓練所が開設されたのは一九四四年五月。魚雷や機雷を装備した水雷艇の搭乗員を養成する海軍水雷学校(神奈川県横須賀市)川棚分校の名目だったが、間もなく小型高速特攻艇「震洋」の訓練が始まり、敗戦間際までひそかに続いた。

入り江が見渡せる高台で暮らす田崎忠男さん(74)=川棚町新谷郷=は、四三年十二月ごろ訓練所開設準備が始まったと覚えている。当時、旧制大村中一年。訓練所の病院建設用地にあった自宅が立ち退きを強制され、現在地に移転したからだ。

「疎開しろといわれたが、男手は戦争に取られてない。近くに宿舎があった朝鮮半島出身作業員たちに手伝ってもらい移ることができた」。一帯で移転を迫られたのは約二十五世帯とみている。

海岸の埋め立て、地ならし、施設建設は突貫工事だった。訓練が始まると、そばを通る汽車は乗客に外を見せないようよろい戸を下ろした。田崎さんの家は訓練が見えるとして低地への再移転を求められたという。

震洋は長さ約五―七メートルのベニヤ製で船首部分に二百五十キロ爆弾を装備。国内外の海岸の掩体壕(えんたいごう)などに潜んで敵艦を待ち伏せし、一人または二人が乗り約二十五ノツト(時速約五十キロ)で主に夜間突撃。

訓練を受けたのは「国を守る」心構えを小さいときから教え込まれた二十歳前後の若者。物資不足のため海軍飛行予科練習生などから”転身”を余儀なくされた約六千五百人が、ちっぽけな船でいかに成果を挙げて死ぬかを必死に学んだ。

震洋部隊はフィリピンのコレヒドール、沖縄で敵艦数隻を撃沈した記録があるが、出撃前に攻撃を受けて戦死したケースが多かった。訓練中の事故死、汽車への飛び込み自殺もあったという。新谷郷の震洋係留地跡近くに六六年五月、建立された「特攻殉国の碑」には震洋の戦死者約二千五百人を含む三千五百十一人の名が刻まれている。

学徒出陣の兵科四期予備学生出身で魚雷艇の第二期訓練生として四四年七月に入所した西村金造さん(84)=西海市西彼町=。約二カ月の訓練を終えると、震洋搭乗員の教官に任命された。既に訓練は始まっていた。

「震洋は海上の人間爆弾。敵の上陸を阻止する兵器として実に不十分だが、当時はこれしかできない国情。もっと威力ある兵器で戦いたかった」。二カ月間に座学で震洋の性能や攻撃の仕方、敵の作戦を、実践訓練で操船技術などを指導した。

佐世保市早岐出身で元震洋部隊員、進藤貞雄さん(80)=川棚町小音琴郷=は三重海軍航空隊奈良分遣隊で具体像が分からない「特殊兵器」の搭乗員募集に応じて採用され、四四年九月に同期生四百人と川棚へ。「初めて見た震洋はビヨン、ビヨンとした手触り。死ぬ運命とあきらめてはいたが、こんなもので死なねばならないのかと思うと情けなく、がっかりした」

敵の貨物船などに衝突する五百メートル前で海に飛び込めば助かる場合もあると教えられた。だが、実際に佐世保港内で実施したのは一万トン級の船に突っ込む訓練だった。四五年一月、五十人の震洋搭乗員ら計約二百人で編成する部隊の一員として台湾南部の島へ派遣。その後、沖縄行きを命じられたが行けずに終わった。

「パイロットを目指し予科練で厳しい訓練を積んだのに、目の前にあるのはベニヤのボート。『これで国のために戦えるのか』と疑問を抱き、落ち込む。そこから訓練は始まった。しかし続けるうちに変わっていった」。西村さんは振り返る。

震洋の訓練が終了した四五年七月二十五日まで教官を務め、「本土防衛」のため千葉県利根川に部隊配属され終戦。「特攻殉国の碑保存会」の事務局長を発足当初から務める。

「短期間の訓練で若者を『命を捨てても国を守る』という気持ちにさせたのは、教育で素地ができていたから。今も教育が国造りの重要な要因の一つであることに変わりはない」。言葉に力を込めた。

震洋 海軍が戦況の挽回(ばんかい)を期し考案した9種類の特攻兵器の中の4番目で、別名「〓(まるよん)艇」。船体が緑だったことから「アマガエル」とも呼ばれた。県内では三菱長崎造船所、佐世保の造船所などで造られた。県内を含む国内外の海岸に約7000隻が配備されたという。

【編注】〓は○に四