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戦争の記憶 12 外国人抑留
長崎から阿蘇の山中に

2005/12/14 掲載

外国人抑留
長崎から阿蘇の山中に

「今日から自由に外出することはできない」。長崎市本河内町の聖母の騎士修道院にやって来た四人の警官が、ポーランド人修道士ローマン・クエチェンさん(91)らに告げたのは一九四一年十二月八日。日本軍がマレー半島に上陸、真珠湾の米軍を攻撃した日だった。それまで「スパイ」容疑で監視対象にされていた在日外国人への対応は厳しくなり、抑留所が各地に設けられた。

「戦争中の聖母の騎士」(小崎登明著)に引用された内務省警保局外事課外事月報によると、長崎抑留所は当初、長崎市城山町のカトリック聖マリア学院に開設。その後、本河内町の聖母の騎士神学校へ移された。

「校舎を板塀で仕切って区別し、中で生活する人たちと言葉を交わすのを禁じた」(クエチェンさん)。長崎は家族単位で収容することもあり、一時、収容者が四十人を超えた。

建物の壁にはコールタールが塗られ、見えにくくされていた。ある日、空襲警報中に施設の煙突から黒い煙が上がったのを理由に監視の警官が修道士たちを集め、拳銃を向けて威嚇したこともあったという。

敗戦近くになると、聖母の騎士修道院のポーランド人修道士十人が熊本県阿蘇の温泉地・栃木に抑留されることに。「監視の警官に『二度と帰ってこられない』と言われ、三週間かけ生活道具を二台の貨車に積んで準備した」とクエチェンさん。汽車で長崎市をたったのは四五年八月二日夜。一台の貨車は前日の空襲で駄目になっていた。

「栃木は周囲を山に囲まれ、とても逃げられないような場所だった」。ここで抑留を経験したポーランド人十人のうちの三人を連れて七八年に訪れた修道士、小崎登明さん(77)の印象だ。長崎の十人のほかアメリカ、カナダ、フランス、チェコ、スペイン出身者らキリスト教関係者約三十人も九州各地から集められていたという。

クエチェンさんの記憶では、生活の場としてあてがわれた旅館には大部屋が二つか三つ、ホールのような部屋もあった。「祈りをあげるため祭壇を作ったり、山登りや地元の日本人との交流も許された。一番大変だったのが食料確保。いつも足りず、ひもじかった」

終戦で解放され順次、長崎へ。ポーランド人修道士たちは、戦争孤児や原爆孤児たちの世話を親身になってした。

栃木に抑留された長崎の十人のうち、今も存命するのは最年少のクエチェンさんら二人。「よく『かわいそう』とか『大変だったでしょう』と同情されるが、私自身にはそういう思いはない。祖国を出るときに覚悟を決めていたし、日本にとっては招待なく来た厄介者だったからだ」。淡々と当時を振り返る。

祖国は古くからロシアやドイツなど周辺国に繰り返し踏みにじられた。生まれた一四年には第一次大戦が始まり、ワルシャワ郊外にあった家はドイツ軍に奪われ、山の中で三カ月暮らした。

所属する修道会から派遣され来日したのは三四年八月九日。シベリア鉄道を利用し旧満州を経て釜山から船で対馬海峡を渡った。以降、国を挙げてアジア・太平洋へ侵攻し、敗れた日本の歴史を見てきた。戦争になれば「自由」が制約されることも身をもって知る。

その目に映る今の日本。自衛隊のイラク派遣、小泉首相の靖国神社参拝などにも触れながら「これからどこへ行くのか」と語った。

外国人抑留所 太平洋戦争開戦に伴い「敵国人」と扱われるようになった在日外国人は全国35カ所の抑留所に強制収容された。長崎抑留所は1941年12月9日、長崎市城山町にあったカトリック聖マリア学院を接収して開設。全国で5番目に多い21人を収容したという。