戦争の記憶 11

戸田さん方2階に今も残る米軍機の弾痕=宇久町平郷

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戦争の記憶 11 宇久島空襲
“報復”で少年2人犠牲

2005/11/11 掲載

戦争の記憶 11

戸田さん方2階に今も残る米軍機の弾痕=宇久町平郷

宇久島空襲
“報復”で少年2人犠牲

終戦間近の一九四五年七月七日、宇久島の平村(現在の北松宇久町)が米軍機の空襲を受け、少年二人が死亡した。だが史実を証明する資料はほとんど残っていない。

町郷土誌によると、四三年、宇久島のほぼ中心にある城ケ岳山頂(二五八メートル)に本土防衛に備え、大型の電波探知機(レーダー)、監視哨(しょう)、一三ミリ高射機関銃、探照灯(サーチライト)、無線室などを持つ海軍基地(佐世保警備隊宇久島分遣隊)が設置された。兵員は六十数人でうち予備学生が数人、予科練生は十数人いた。

当時、陸軍入隊前で宇久島にいた永松久光さん(81)と妻のトシ子さん(75)、佐世保の海軍軍需部にいて佐世保大空襲(四五年六月二十八―二十九日)に遭い、帰郷していた井原恒夫さん(76)らによると、宇久島で空襲があった日は次のようだった。

午前中、偵察のため宇久島上空を低空飛行していた米軍哨戒飛行艇二機のうち一機が、沖にいた日本軍駆潜特務艇の機銃を受け、宇久島から約五キロ沖の海上に墜落。米兵五人が捕虜になった。

五人は警察や地元警防団などによってゴムボートで上陸させられ、拳銃を取り上げられた。周囲には多くの人だかりができ、「殺せ」「竹やりでたたけ」などと怒号が飛び交った。警戒警報が出て群衆が四散した後、港から役場まで連行しにぎり飯を食べさせたという。

午後三時ごろ再び警戒警報が発令され、間もなく米軍機の編隊が来襲。激しい音を立てて機銃弾が集落一帯に打ち込まれた。灯台事務所付近に二発の爆弾も投下された。

「空襲は米軍の報復だった」。永松さんらは口をそろえる。トシ子さんは、警察の補助員をしていた父が言った言葉「必ず空襲があるから心構えをしておけ」をはっきり覚えているという。

当時の新聞や、元町議会議長で会社経営、戸田徳重さん(77)の調査では、平港と、近くの丘の上にあった古志岐島灯台平事務所(後の宇久航路標識事務所=昨年三月閉鎖)への攻撃が最も激しかった。

宇久島東北沖約三キロの古志岐島に設置された古志岐島灯台は船舶航路の重要な目印で、日本から中国などに向かう輸送船団が近くをよく通り、米軍機も上空をしょっちゅう飛んでいたという。

機銃掃射は午後四時十五分ごろから約十分間。機銃弾で家々のかわらが崩れ落ちた。同平事務所の近くで空襲を目撃し、弾が体をかすめた体験がある井原さんは「必死で近くのお宮に逃げた」。戸田さんの自宅二階には、弾が壁を貫通した跡が今も残っている。

当時、宇久国民学校の教員だった浜田明野さん(77)は「現在の宇久中の体育館の前にあった防空壕(ごう)に重要な書類を抱えて逃げ込んだ。生きて帰れるとは思わなかった」と振り返る。

この空襲で家屋の損壊は多かったが、大火には至らなかった。だが被害の詳細や実態は分からないことが多いという。

死亡した少年は当時、十六歳と十七歳。平港の船上で機銃弾を浴びて死亡したとみられる。十六歳の少年の弟は「被爆者だけが戦争の犠牲者ではないことを知ってほしい」と話す。

戦後六十年。島を襲った恐ろしい出来事を鮮明に覚える住民は年々少なくなっている。「後世に語り継ぐためにもしっかりと調査を進めなければ」。戸田さんの決意は固い。