戦争の記憶 7

福江島分屯基地内の巨大な通信用アンテナ=五島市三井楽町、京ノ岳

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戦争の記憶 7 京ノ岳監視所
住民が24時間警戒

2005/07/23 掲載

戦争の記憶 7

福江島分屯基地内の巨大な通信用アンテナ=五島市三井楽町、京ノ岳

京ノ岳監視所
住民が24時間警戒

五島市三井楽町の京ノ岳(一八三メートル)に置かれた航空自衛隊第十五警戒隊福江島分屯基地。日本の「西の空」をレーダーで監視している。ほぼ全方位が見渡せる山頂部には戦時中、若い民間人らが詰めた監視所があった。「木造のやぐらに交代で登り、敵機、敵船の動向に目を凝らした」。同町の漁業、神村嘉信さん(76)は、海と空を双眼鏡で見詰めた日々を振り返る。

同町の吉川三吉郎さん(80)も詰めた一人。「監視所の規律はなかなか厳しかった」。同じく監視に当たった馬場仙司さん(78)も「ふもとから水や食料を担いで山頂まで運ぶのが大変だった」と語る。三井楽町郷土誌によると、旧軍部は京ノ岳で対空電波小隊の基地建設を終戦まで進めた。

終戦が近いある日の午前、三井楽町嵯峨島付近に米軍の潜水艦が浮上。神村さんが発見、連絡し監視を続けた。艦は、嵯峨島の裏から姫島付近を通り、岐宿町の八朔鼻沖で動きを止めた。半回転し船尾を陸に向けると、間もなく海面に水柱が立った。艦砲射撃の開始だった。次々に上がる水柱は徐々に陸域に近づき着弾。十数発が発射され被害を与えた。

潜水艦は同じコースを逆にたどり、三井楽町柏沖で再び船尾を向けたが発射せず、嵯峨島沖で潜水。夕方、ようやく味方の複葉練習機が様子を見に飛んできたという。柏が米軍機の爆撃を受けたこともあった。

近くに朝鮮半島や大陸を控える福江島。終戦後、米軍は三井楽町の白良ケ浜から進駐し、やがて京ノ岳の立地に着目。レーダー基地を建設した。一九四九年、中華人民共和国が成立。翌年、朝鮮戦争がぼっ発した時代だった。

久野浩第十五警戒隊長は「アメリカにとって日本は極東の拠点。朝鮮戦争で、京ノ岳の基地が活躍したのは想像に難くない」と話す。航空自衛隊は五四年に発足。京ノ岳の基地は、米軍との共存を経て五九年、航空自衛隊に完全移管された。

福江島分屯基地はレーダーで空の警戒に当たる。半径四百キロ前後を常時監視。現在、最新型レーダーに更新中。通信用大型アンテナも数基ある。隊員は百五十―二百人。島内災害発生時の災害派遣出動なども任務の一つ。全国自衛隊父兄会県支部連合会の山下繕市理事(64)=岐宿町=は「隊員とその家族は、住民と交流し地域活性化にも寄与してきた」と語る。

六三年ごろ、基地内を見学したという松山勇五島市文化団体連絡協議会長(77)は「ペンキを塗った建物や丸い屋根の渡り廊下など、米軍時代の洋風な感じがまだ色濃く残っていた」と振り返る。現在、基地内にその面影はなく、最近まであった戦時中の防空壕(ごう)も埋め戻したという。

福江島などでは江戸時代、外国船を警戒する「番所」が各地にあった。また玉之浦町の大瀬崎では日露戦争の際、バルチック艦隊発見の一報を受信した。久野隊長は歴史的経緯も踏まえ「福江島は空港や港湾も整っており、戦略的に価値の高い場」と言い切る。

戦時中の記憶をたどる神村さんは「監視所である以上、敵に狙われる覚悟はしていた。サイパン、グアムが玉砕した後、福江島も(玉砕)間近かもしれんという緊張感は確かにあった」と語る。周辺監視というその複雑な役割を、福江島は京ノ岳を中心に今も担い続けている。

京ノ岳監視所 24時間態勢で山頂にやぐら、少し下った所に待機所があった。地元の若者らで数班(1班6―7人)が編成され、約1週間勤務しては交代した。やぐらには2人組で登り、本土に向かう敵機などを見つけると、電話で佐世保鎮守府に伝えた。