還暦の8・15 下

母の遺品の腕時計を手に両親への思いを語る川原さん=長崎新聞社

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還暦の8・15 下 川原征一郎さん
(長崎市出身の被爆者)
「戦死」の父へ涙の手紙

2005/08/15 掲載

還暦の8・15 下

母の遺品の腕時計を手に両親への思いを語る川原さん=長崎新聞社

川原征一郎さん
(長崎市出身の被爆者)
「戦死」の父へ涙の手紙

『今、お父さんの若いころの写真を見ながら、髪の生え際から、何から何まで私にそっくりなのに驚いています』。長崎市出身の被爆者で元天草水族館長、川原征一郎さん(63)=熊本県本渡市=が、ビルマ(現ミャンマー)で戦死したと聞かされてきた父悦男さんにあてた手紙はこんな書き出しで始まる。

「昭和二十年四月十三日ビルマ国サガシーに於て戦死認定」と記された一九四八(昭和二十三)年九月二十日付の長崎県知事発行の死亡告知書と、ビルマで歩哨に立っている丸刈り姿の父の写真を初めて見たのは、母モモエさんが五年前、八十九歳で亡くなった後だった。

モモエさんの遺品を整理中、小さな引き出しの中から出てきた。長崎市銭座町一丁目(当時)の自宅(爆心地から約一・五キロ)近くで被爆した時に着けていた腕時計、色あせた被災証明もあった。

■夢での対面

今年六月末、軍服、軍帽姿の悦男さんが夢に現れ「手紙ぐらい書けよ」。ペンを執った。『あなたが今、どこで何をしているのか知りたくて、一度でいいからお顔を拝見し、生の声を聴きたくて、最後の機会と思い、手紙をしたためています』

長崎市で新聞社に勤めていた悦男さんは四一年七月、三十三歳で出征。その二カ月後に征一郎さんが誕生。上に姉四人。待望の男児誕生を戦地で喜び、命名する名前を知らせてきたという。

原爆が落とされた時、長女は学徒動員で三菱兵器大橋工場に、モモエさんは勤労奉仕先から帰宅途中。子ども四人だけの自宅は倒壊し全員が家の下敷きに。モモエさんは爆風で吹き飛ばされながらも自宅に駆け戻り、必死に掘り出した。”

『原爆に遭い、怖くてお父さんに助けて!と叫んだのですよ。母一人で私たちを助け、姉は火傷を負いましたが全員無事です。ご安心ください』

■心が安らぐ

戦後苦労して四人の子を育てたモモエさん。夫の死亡告知書を受け取った後も確認されたわけではないからと待ち続けた。そのことも教えた。

『母は質屋通い、金策の駆け回り、建設現場の作業員…大きなリュックを背に買い出しなどで生活を支えました。再婚することなく、あなたへの感謝の思いを胸に秘め、他界しました』

思いを切々とつづった便せんは四枚に。途中から涙で字がゆがんだが、胸のつかえがとれ、心が安らいだ。「六十年という時間がそうさせたのかもしれません」と征一郎さん。九日の長崎の平和祈念式典会場では「原爆を落とした国を憎んでも癒やされない。平和をつくる努力をしよう」という境地にもなった。

長崎市内にある墓に納められた紙コップ大の骨つぼに悦男さんの遺骨はなく、採取地不明の砂状の土が少量。生存に今もかすかな望みをつなぐ征一郎さん。手紙の最後には父にお願いをした。

『ビルマの人を奥さんにしているとしても私は反対しません。でも亡くなる前に、せめてお便りくださいね』